鶴丸城 (つるまるじょう) (鹿児島城) (県の史跡)(日本100名城97)
所在地 鹿児島県鹿児島市城山町7 2013.10.10 2014.5.11 2020.9.22
鶴丸城 (つるまるじょう) (鹿児島城) (県の史跡)(日本100名城97)
所在地 鹿児島県鹿児島市城山町7 2013.10.10 2014.5.11 2020.9.22
堀・石垣
復元御楼門
復元御楼門・桝形
本丸にある篤姫座像
二の丸から見た本丸石垣
二の丸石垣
二の丸門・県立図書館
城山の洞窟
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道10号線「市立美術館前」交差点より西に入り150m、右折すると駐車場が用意されている[マップコード42 036 291*72](地図)。
北の本丸跡に「鹿児島県歴史資料センター黎明館」が建てられ、北側に篤姫「天璋院」の銅坐像(地図)がある。堀・石垣・石橋の残る本丸虎口がある。
御楼門が復元され、令和2年4月11日から一般開放された。
二の丸跡には「県立図書館」が建っている。錦江湾向いの桜島が望め、南国情緒が漂う。城内には、桜島噴煙の火山灰が一面に薄く積もっていた。
西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡の石垣(県の史跡)には西南戦争の際についたといわれる弾痕が多数残る(地図)。
西の山が「後詰めの城」の城山であり、西南戦争に敗れた西郷隆盛の自刃の地であり、5日間隆盛らが過ごした洞窟が保存され残っており、昭和六年(1931年)6月3日、国の史跡に指定されている。
鶴丸城跡は昭和二十八年(1953年)9月7日、県の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(97番)に選定された。
【歴史】 島津氏は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向三か国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名であり、南北朝時代には「上乃山城」・「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡され、上山氏は桜島に移っている。
その後島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城した。麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれなかった。
天正十五年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐によって豊臣氏に服属、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる所領の支配を認められた。
慶長六年(1601年)に18代当主島津忠恒(家久)により築城された。前年の関ヶ原の戦いで、島津義弘は西軍側に属して敗北し、責を負って引退し、義弘の実子で義弘の兄・義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城(鹿児島市大竜町)に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、慶長九年(1604年)に完成した。
慶長十四年(1609年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させ、琉球の石高12万石を加えられた。
奄美諸島は琉球と分離され、薩摩藩が直接支配した。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした中国との貿易が利益をもたらした。
第八代藩主・島津重家は、閉鎖的であったそれまでの藩政を改革し、安永二年(1773年)に、藩校造士館と演武館の設立を手始めに、医学院や明時館と次々に学校を設立した。
嘉永四年(1851年)に第十一代藩主となった島津斉彬の下で、洋式軍備や藩営工場の設立を推進し(集成館事業)、また、養女の篤姫を第十三代将軍・徳川家定の正継室にするなど、幕末の雄として抬頭した。
斉彬の死後、藩主・島津忠義の実父である久光が実権を握り、「国父」・「副城公」と呼ばれた。
公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て、西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移った。
幕末には公武合体論や尊王攘夷を主張、その後坂本竜馬の介在で長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降長く日本の政治を支配する薩摩閥を形成することとなった。