枚方城 (ひらかたじょう)
所在地 大阪府枚方市枚方元町1 2018.7.11
枚方城 (ひらかたじょう)
所在地 大阪府枚方市枚方元町1 2018.7.11
御茶屋御殿跡
御茶屋御殿跡
万年寺山・意賀美梅林
意賀美神社社務所
枚方城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 意賀美神社西の意賀美梅林や御茶屋御殿広場一帯と考えられる。
現枚方小学校が城跡と云われるが、明治には萬年寺の址にあり、地形的にもここが城跡として相応しいと思う。
【案内】 京阪本線「枚方公園駅」より北東に細い道を約500m行った御茶屋御殿広場(地図)とその東の意賀美神社一帯とされている。駅前の道路は広いが駐車は難しく有料駐車場も見当たらない。
【歴史】 枚方は、奈良時代に百済王氏が渡来した地である。枚方城は、この百済王氏の後裔と称する豪族本多氏の居城であった。
本多内膳正政康は、豊臣秀吉の家臣となり、その娘が秀吉の妾となったことから豊臣家との関係が深まり、家運は大いに栄えた。
文禄四年(1595年)、京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶殿を建てた。秀吉の家臣・本多政康の娘をここに住まわせたとされる。
しかし、大阪冬の陣(1614年)の前年、大阪城の外堀的存在であった枚方城は、いち早く東軍の手に帰してしまい、慶長二十年(1615年)、大阪落城にともない、枚方城も廃城となった。
江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となった。元和9年(1623)には2代将軍秀忠が、寛永3年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されている。
萬年寺の址は前記御茶屋御殿の址の北にあり、今(明治当時)は枚方尋常高等小學校の敷地となる『大阪府全志』。