櫛間城 (くしまじょう)
最寄地 宮崎県串間市西方2714 2018.12.15
櫛間城 (くしまじょう)
最寄地 宮崎県串間市西方2714 2018.12.15
登城ルート
串間市林業総合センター・北側入口
北側の空堀
空堀(続き)
北東の郭・2郭切岸
主郭2郭間の空堀
工場東・主郭の切岸
秋月氏の墓(手前から秋月種実、秋月種守、種実の室)
櫛間城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 串間市の東側に福島川、西側に天神川が流れる南北に伸びた比高20mほどのシラス台地上にある。
13在った曲輪の内、半分くらい見られるが、全体的に鬱蒼としており、初めての人は躊躇されるかも知れない。
他のサイトで遺構の大半は消滅しているとあったが、中々どうして杉林の中に段を設けた郭と深い空堀が残っていた。
【案内】 国道220号線より日南線の踏切を渡って行った「串間市林業総合センター」北側から入る[マップコード238 539 422*41](地図)。駐車スペースは少なく北側のカーブ付近が広く駐車できる。
センター北側の農道を南西に行くと、台地下に着き、そのまま橋を渡って直進すると、堀切、空堀に着く。
両側に郭があり、南側の郭は2段になっており、2郭と思われる。南側の2郭から空堀を挟んで、「㈱ジェイエイアイ電子」の建物が見える。工場東の切岸の上が、一番高く主郭と考えられる。
県道441号線より細い道を東へ行った西林院(表記番地)に秋月氏の墓があり、境内の南側にも空堀が見られる。
【発掘調査】 城域は南北約1.2km・東西約400mと広く、13~14の曲輪があり、平成三年(1991年)以降発掘調査が行われている。
その結果、建物の遺構のみならず、中国や東南アジアなどからの輸入品を含む陶磁器をはじめ、銭貨・石製品・小刀などが発掘されている。
【歴史】 鎌倉時代後期、関東から鎌倉御家人として当地に下向した地頭職・野辺久盛が本拠地として築城したと云われる。
南北朝時代には、野辺盛忠の本拠地で、島津貞久や畠山直顕ら歴代の守護に抵抗したが、1339年(延元四年/暦応二年)に陥落した。
盛忠の後は、盛房が城主となり、代々野辺氏が居城したが、7代盛仁の時、足利義昭事件を契機に野辺氏は衰退し、櫛間城を去った。
室町時代後期には島津氏の配下に入り、同氏の一族である伊作家が伊作城から櫛間城に転封された。
伊作久逸は伊東祐国と結んで反乱を起こすが、伊東祐国が戦死すると降伏して伊作に戻され、代って同じ島津氏の一族の豊州家が入った(飫肥城主を兼ねる)。
その後、島津氏・肝付氏・伊東氏による攻防が繰り広げられるが、豊臣政権の九州国分によって、天正十五年(1587年)筑前国秋月氏がこの地に移された。秋月種長が一時居城としたが、慶長九年(1604年)新たな本拠として高鍋の財部城に移り、櫛間城は廃城となった。