宇和島城 (うわじまじょう) (丸串城・鶴島城・板島城) (国の史跡・日本100名城83)
所在地 愛媛県宇和島市丸之内1 2010.9.9 2014.9.12
宇和島城 (うわじまじょう) (丸串城・鶴島城・板島城) (国の史跡・日本100名城83)
所在地 愛媛県宇和島市丸之内1 2010.9.9 2014.9.12
移築長屋門・入口
井戸丸北虎口石垣
藤兵衛丸石垣・郷土館
本丸石垣・天守
二の丸・本丸一の門跡
本丸・現存三重天守
宇和島城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 標高約70mの独立丘陵にある現存十二天守の一つで、堀はすべて埋められている。
国道58号線「宇和島市丸之内」交差点の120m北交差点を西に行くと、有料駐車場が設けられている[マップコード176 188 093*14](地図)。
三の丸の駐車場より、移築された「藩老桑折氏武家長屋門」を潜り登ってゆく。
大井戸の残る井戸丸を通り、藤兵衛丸に移築された山里倉庫(武器庫で現在、城山郷土館)がある。その北が長門丸である。南に行き二の丸、本丸と続き石垣が良く保存されている。
櫛形門跡(一の門跡)の石段を登ると広い本丸に御台所跡、一段高い石垣上に三重天守が現存している。
建物内には擦り減った急階段があり、三階へ登ると宇和島市街や宇和島港、宇和島湾の絶景が望める。南の搦め手口に「上り立ち門」が現存する。
昭和十二年(1937年)12月21日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(83番)に選定された。
【歴史】 天慶四年(941年)警固使・橘遠保が藤原純友の乱の際、この地に砦を構えたとされる。
嘉禎二年(1236年)西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、砦程度の丸串城を築いた。
天文十五年(1546年)家藤監物が城主となり、大友氏、長宗我部氏等の侵攻に耐えた。
天正三年(1575年)家藤監物が去り、西園寺宣久の居城となった。
天正十三年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐により、伊予国は小早川隆景の所領となり、隆景家臣の持田右京が城代となった。
天正十五年(1587)隆景は筑前国名島に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城し、戸田与左衛門が城代となった。
文禄四年(1595年)藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城し、慶長元年(1596年)城の大改修に着手し、慶長六年(1601年)現在の姿の城が完成し、宇和島城と名付けられた。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府城(今治市)に移封となっていたが、この年、城の完成を見て国府に移った。
慶長十三年(1608年)富田信高が伊勢国(津城)より転封、入城した。慶長十八年(1613年)十月二十四日、富田信高が大久保長安事件に連座して改易(表向きの理由は坂崎直盛との争い)となり、宇和郡は徳川幕府直轄となって、藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代とした。
慶長十九年(1614年)伊達政宗の長男(庶子)・村田城主伊達秀宗が10万石で入封、元和元年(1615年)秀宗が入城した。
寛文二年(1662年)二代藩主・宗利が老朽化した城の改修に着手し、寛文十一年(1671年)改修竣工した。
明治四年(1871年)城は兵部省に帰属し、大阪鎮台の所管となった。明治三十三年(1900年)頃から櫓・城門などが解体され、昭和三十五~三十七年(1960~62年)天守は解体修理された。