勝賀城 (かつがじょう) (市の史跡)
最寄地 香川県高松市鬼無町佐料332 2017.12.12
勝賀城 (かつがじょう) (市の史跡)
最寄地 香川県高松市鬼無町佐料332 2017.12.12
登城ルート(緑線は車道)
猫びたい
社・城跡標柱
本丸・土塁
本丸土塁・食い違い虎口
二ノ丸北東土塁・石積
勝賀城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高250m】
【感想】 高松市西部の標高364.1mの勝賀山山頂に築かれた広い本丸を持つ城で、食い違い虎口、平虎口、土塁などがよく残っている。
当日は食い違い虎口付近で、発掘作業が行われていた。
【案内】 県道33号線の信号交差点より西へ、佐料公会堂前を通って約850m行くとみかん畑の中の農道交差点に出、説明板が建てられている。さらに450mほど行くと左手に駐車スペースがある[マップコード391 598 757*65](地図)。
少し登ると左手に、案内標識、防獣フエンス扉があり遊歩道が整備されている。
延々登ってゆくと「猫びたい」と呼ばれる尾根上のやや広い平坦地に出、右に「猫の背」と呼ばれる堀切のある土橋を通って、西側の土塁に出る。
その先に小郭があり東の最高所に本丸がある。本丸は100mに及ぶ広大な郭で、土塁が周囲によく残っている。中央に社が祀られ、城跡標柱、説明板が建てられている。本丸東の食い違い虎口を経て二の丸があり、石積みのある土塁がよく残っている。
昭和五十五年(1980年)8月6日、高松市の史跡に指定された。
【歴史】 承久三年(1221年)の承久の乱において鎌倉幕府方として軍功のあった香西氏初代資村(すけむら)は阿野(あや)北条・阿野南条・香西・香東の4郡に勢力を広げた。
嘉禄年間(1225~27年)初代香西資村は勝賀城を詰城、佐料城を居館としてきた。
室町時代になると、香西氏は讃岐国領主で室町幕府管領の細川氏の臣下として重きを成し、また瀬戸内海の塩飽水軍や村上水軍と連携し、貿易を行ったため、香西の城下町や港は大いに栄えた。讃岐国領主が細川氏から三好氏、十河氏に移ると、香西氏はこれに従った。
18代佳清(よしきよ)の時、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて、天正三年(1575年)藤尾山に築城を初め、天正五年(1577年)に完成を待たず佐料城から藤尾城に居館を移したが、詰城の勝賀城は依然機能していたと考えられる。
天正十年(1582年)八月の長宗我部元親の攻撃で「西光寺表の戦い」「天神郭の戦い」等の激戦があり、香西軍は惜敗し西讃岐の香川信景の仲介で和睦した。
天正十三年(1585年)豊臣秀吉による四国攻めで、香西氏は敗れ廃城になった。