亀山城 (かめやまじょう) (亀岡城・亀宝城)
所在地 京都府亀岡市古世町北古世81‐1 2013.9.6 2017.1.12
亀山城 (かめやまじょう) (亀岡城・亀宝城)
所在地 京都府亀岡市古世町北古世81‐1 2013.9.6 2017.1.12
北側公園の亀山城趾碑
北側の内堀
東側の石塁
正門
万祥池
天守台石垣
亀山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 宗教法人の敷地となっており、神聖な雰囲気が満ち、各所に施設が建てられている。本丸の石垣は見事である。その上は、禁足地となっており、赤外線警備が実施されている。
【案内】 県道25号線に面して大本(おほもと)本部駐車場がある[マップコード52 655 040*60] (地図)。
城跡の東の「(宗)大本天恩郷」(表記番地)から入る。天守跡の石垣を始め、石塁が保存されている。
北に南郷公園となっている堀があり、「明智光秀公築城亀山城趾」の石碑が公園入口左に建てられている(地図) 。
【歴史】 亀山城は天正五~七年(1577~79年)明智光秀による築城に始まり、三期にわたり完成した近世城郭である。
第一期は光秀の丹波攻略の拠点で三重天守があったと伝えられている。光秀は天正十年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死した。
第二期は、天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)や豊臣の五奉行の一人、前田玄以などが入った。特に、小早川秀秋による城下町整備を中心とした築城整備が行われた。
第三期は岡部長盛が亀山藩主の時、大阪城の包囲網として、藤堂高虎が縄張りを行い、西国大名による天下普請で完成し、五重天守が上げられた。
明治十一年(1878年)の廃城までその雄姿を誇った。
大正八年(1919年)荒廃した城跡を教団「大本おおもと」・出口王仁三郎が買い取り石垣を積み直し、「天恩郷」として神苑整備されたが、昭和十年(1935年)大本弾圧事件で爆破され廃城となった。
戦後同教団により石垣を積み直され復興された。