宇土城 (うとじょう)
最寄地 熊本県宇土市古城町63 2013.6.9 2017.5.9
宇土城 (うとじょう)
最寄地 熊本県宇土市古城町63 2013.6.9 2017.5.9
登城ルート(赤は本丸/緑は二の丸/紫は三の丸)
西側高石垣
内堀
南東腰郭の石垣
本丸
小西行長像
二の丸
宇土城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 本丸跡は城山公園として整備されている。高石垣や内堀がよく残っており、本丸には関ヶ原の戦いに敗れ、斬首されたキリシタン大名小西行長の立像が建てられている。
二の丸は墓地、三の丸は宅地や畑となっている。その外側に幅10m以上の外堀の跡が残っている。
【案内】 県立宇土高等学校(表記番地)より西に約200m行き、左折南に100mほど行くと、本丸への石段がある[マップコード29 033 136*54]。
西の二の丸跡(地図)は「二の丸墓苑」となり、本丸は三重天守があったと言われており、南東に一段下がって腰郭がある。
三の丸跡(地図)は本丸の南にあり、これらを囲む外堀(地図)があった。外堀を含めた城域は東西約550m南北約500m、面積は20万㎡であった。西約400mに宇土古城がある。
昭和三十三年(1958年)3月14日、宇土市の史跡に指定された。
【歴史】 天正十六年(1588年)小西行長は、肥後国宇土郡、益城郡、八代郡あわせて17万5千石(諸説あり)を所領すると、宇土古城の東にあった高さ約13mの城山(宇土市古城町)に城地を移し、新城を築く計画を立てた。
しかし、普請に際して天草の国人衆が助力を拒否したことから天草国人一揆が起きた為、実際の普請開始は翌年からと見られている。
慶長三年(1598年)八月に秀吉が死去すると、行長は十二月に帰国した。その後は寺沢正成と共に徳川家康の取次役を勤めるなど、むしろ家康との距離を近づけているが、慶長五年(1600年)の家康による会津征伐に際して、上方への残留を命じられ、その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦した。
敗戦後、六条河原において三成・安国寺恵瓊と共に斬首された。その際行長はキリシタンゆえに、僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶。ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に戴いた後、首を打たれたと伝えられる。
加藤清正は豊前国の黒田如水応援のため豊後国へ出陣したが、豊後戦線が如水優位になると直ちに軍を反転し、宇土城攻撃に取りかかった。
十月二日には三ノ丸まで進入、本丸・二ノ丸の攻防戦に入った、十月二十日に関ヶ原の戦い(九月十五日)の西軍の敗戦と行長の刑死が城内へ伝えられると、城代小西隼人は十月二十三日に開城して自刃、宇土城は加藤清正の所有となった。
寛永九年(1632年)、2代加藤忠広は徳川家光への謀叛の嫌疑をかけられ改易となり、同年、肥後国は豊前国小倉藩主細川忠利に与えられた。
寛永十四年(1637年)、島原の乱における原城のような立て籠もりを防ぐため、幕府は西国の廃城に対し再度の破却を命じ、城跡は徹底的な破却を受けた。
正保三年(1646年)に、細川行孝が宇土郡3万石を分封され、宇土藩が成立するが、支藩であったため城は築かれず、現・新小路町に宇土陣屋を設けて、宇土細川氏11代が治め、明治維新を迎えた。