白地城 (はくちじょう) (白地大西城)
所在地 徳島県三好市池田町白地本名165 2017.9.23
白地城 (はくちじょう) (白地大西城)
所在地 徳島県三好市池田町白地本名165 2017.9.23
阿波温泉「あわの抄」
大西神社
大西神社右の城址碑
神社裏と「あわの抄」間の空堀
白地城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 吉野川が北から東に向きを変える左岸の台地に築かれている。現在は日帰り温泉施設となり、遺構はほとんど消滅している。
駐車場南の大西神社との間に空堀が僅かに残っている。施設ができるまでは、堀、犬走りなどが残っていたという。
【案内】 国道32号線より西に登って阿波温泉「あわの抄」(表記番地) 敷地となり、中央の植込みに説明板が建てられている[マップコード357 634 420*83] 。
また南のデイケア施設より入った大西神社右に「白地城址」の石碑が建てられ、拝殿裏と阿波温泉駐車場の間に空堀が少し残っている。
【歴史】 建武二年(1335年)、田井荘(池田町)の荘官・近藤京帝がこの地に城を構え、郷名に因み大西氏に改姓し、以来8代(約250年)にわたって統治した。
南北朝時代には、白地城を中心とした一帯は大西氏が支配し、阿波の守護大名である細川氏に従った。
戦国時代には、細川氏から実権を奪った三好氏に服属した。
天正五年(1577年)、四国統一を狙う長宗我部元親に攻められ、城主大西覚養は讃岐国麻城へ落ち延びた。『元親記』には元親の発言として「先づはこの大西さへ手に入り候へば阿讃伊予三ケ国の辻にて何方へ取り出づべくも自由なりと満足し給ひけり」とある。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の四国攻めの際には長宗我部氏の防衛拠点として使われ、長宗我部氏が戦いに敗れて土佐へ退いた際に廃城となった。
廃城後、地域の拠点としての役割は、近くの大西城が担うこととなった。