豊田城 (とよだじょう)
最寄地 熊本県宇城市松橋町浦川内318 2016.5.11
豊田城 (とよだじょう)
最寄地 熊本県宇城市松橋町浦川内318 2016.5.11
説明板
登城ルート(緑線は車道)
南側切岸
虎口
曲輪跡・説明板
豊田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 大野川左岸の台地上にあり、南側は蓮根栽培の田が広がっており、堀の役割を担ったのだろうか?
小中学生の頃過ごした所で、当時は豊田城・曲野城・豊福城・竹崎城が近くにあるなど知る由もないが、訪れてみると、田園風景が懐かしく感慨深かった。
【案内】 表記番地より南へ大野川にかかる「薩摩橋」を渡ってすぐ左折、蓮根畑の左を東へ約180m行くと、駐車スペースがある[マップコード128 834 198*35] 。
左に登ると、二段になった曲輪があり、「豊田城跡」の説明板が建てられている。
【歴史】 阿蘇氏の南方に対する第一線防禦の役目をはたしていたものと思われ、天正年間(1573~92年)の初めごろ、阿蘇家臣村山丹後守が城代として在城していた。天正九年(1581年)十一月末、阿蘇攻めの島津軍の先鋒として、相良義陽は阿蘇氏の益城の諸城攻めに先だって豊田城に開城を迫った。
折しも城主村山丹後守は、矢部の阿蘇氏の下に参じて留守、あとを預かっていた湛渕甚吉(たたえぶちしげよし)はその使者に答えた。
「城主丹後守は留守中で自分はその留守を預かっている者だが、主人を差しおいて勝手な返答はできぬ。只今から使いを走らせて兎角の返答をするからそれまで待たれよ。
もしそれを聞かずに攻撃をかけられるなら、当方は守兵も少なく防戦おぼつかないから、主君の家族を刺殺し、城には火をかけて焼き自分以下切腹して城と運命を共にする覚悟である。その何れを選ばれるか返答を聞きたい。」
相良義陽はこの返答を、城を預かる者として、もっともの事で、又この小城を落としたところで戦局にはほとんど関係ないとして、若干の兵をこの城の監視に残し、豊野方面へ進撃した。
十二月二日早暁、響ヶ原に御船城主甲斐宗連親直の襲撃を受け、一族家臣2百数十名と共に討死した。『宇城市説明板』より。