加久見城(上城) (かくみじょう)
最寄地 高知県土佐清水市加久見1170 2021.3.11
加久見城(上城) (かくみじょう)
最寄地 高知県土佐清水市加久見1170 2021.3.11
登城ルート
擁壁の階段から登る
2郭
主郭・櫓台
北西1条目の堀切
北西3条目の堀切
北西4条目の堀切
加久見城(上城)跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高60m】
【感想】 土佐清水市加久見の標高71.8mの尾根に築かれている。
南北2つの郭から構成され、城址碑などはないが、主郭の土塁や北西の4条の堀切がよく残っている。
【案内】 国道321号線より加久見川西の堤防道路を北上した集落西側の空き地に駐車できる[マップコード276 143 636*38]。あるいは集落を抜け津波避難路の広いところに駐車し戻ってくるかである。
東へ約150m行った2つ目のカーブから(地図)、北の空き地奥に落石防止工事の擁壁に階段が付いている。
階段を登り左に行くと、祠がありそこからジグザグに登って行くと、2郭に着く。
2郭は南北に細長く中央に広い窪地があり、北に主郭がある。主郭は土塁が巡り、北西側に櫓台がある。
西尾根に下ると約10m間隔で4条の堀切がよく残っている。
集落を挟んだ南の山頂に加久見城(下城)がある。
【歴史】 築城年代は定かではないが加久見氏によって築かれた。
加久見氏の祖については詳らかではないが、鎌倉時代に一条家の荘園(幡多荘以南村)の荘官と推定され、加久見城を築いて勢力を伸ばした豪族といわっる。
応仁二年(1468年)前関白一条教房が幡多荘に下向すると、加久見宗孝は土佐守に任じられ、娘は教房の後室となり一条房家(土佐一条氏初代)を出生した。
外戚となった加久見氏は以後百年にわたり、中村城主一条氏の重臣となった。
天正二年(1574年)一条氏の家老ら(安並、羽生、為松)が謀り、主君一条兼定を豊後に追放すると、加久見城主・加久見左衛門太夫は大岐左京進と共に兵を挙げ3家老を滅ぼした。
文禄二年(1593年)加久見左衛門と大岐左京進は、朝鮮の役に出陣して戦死し、領地は没収され没落した。