岩室城 (いわむろじょう) (岩村城)
最寄地 和歌山県有田市宮原町須谷236 2022.5.1
岩室城 (いわむろじょう) (岩村城)
最寄地 和歌山県有田市宮原町須谷236 2022.5.1
登城ルート(緑線は車道)
北側の説明板・駐車場
一の郭
二の郭切岸
三の郭の城趾碑
一の郭西の堀切
西側の平坦地
西側の堀切
岩室城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高250m】
【感想】 有田市にある標高274mの岩室山に主郭があり、南西に小郭、堀切、西の郭と並んでいる。さらに片堀切があり、南西端に徳本上人練行の遺跡(1795~1801年)がある。
主郭の南に2郭があり、一段下がった3郭のエンスの外に城趾碑が建てられている。
【案内】 国道480号線「須谷」交差点より北に行き、表記番地先の広くなったところに駐車できる[マップコード146 548 751*61]。狭いコンクリート舗装道が城跡北側の駐車場まで通じているが、ミカン農家の軽トラが行き来しており徒歩で登った。
道標に従って、コンクリート舗装道を延々と登ってゆく、約600m手前のフエンス扉より北尾根に行くと駐車場があり、説明板が建てられている。
【歴史】 『平家物語長門本』によると、文治元年(1185年)屋島の戦いに敗れた平重盛の末子丹後侍従平忠房が湯浅の荘の地頭湯浅宗重のもとに身を隠し、各地から平家の残党が集まり、500余人となった。
これを聞いた源頼朝が阿波成長に命じ、1,000余騎をもって攻めさせたが湯浅氏は岩村城に立籠り、激しい戦いが3ケ月も続いたといわれる。
室町時代の応永七年(1400年)に紀伊国守護職として畠山基国が入国し、広城、鳥屋城を修築し、宮原に居館を構えた。岩村城には弟の畠山満国が城主となり、岩室城に改められた。
天正十三年(1585年)畠山定政が根来・雑賀の残党に推され羽柴秀吉に叛いたため、秀吉の紀州攻めに会い落城し廃城となった。『現地説明板』より。