知覧城 (ちらんじょう) (国の史跡)
所在地 鹿児島県南九州市知覧町永里 2014.5.11 2020.9.22
知覧城 (ちらんじょう) (国の史跡)
所在地 鹿児島県南九州市知覧町永里 2014.5.11 2020.9.22
登城ルート(緑線は車道)
本丸北側空堀
蔵之城登り口
蔵之城・建物跡
本丸虎口
本丸・城趾碑・土塁
今城弓場城間の空堀
今城
弓場城
知覧武家屋敷
知覧城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 知覧町永里にあるシラス台地を利用した南北800m、東西900m、面積45万㎡という壮大な城郭で、浸食谷を巧みに空堀として利用し、その間に「本丸」の他、「今城」、「蔵之城」(地図)、「弓場城」など4つの主要曲輪がある。
また「式部殿城」、「児城」、「東ノ栫(かこい)」、「北ノ栫」、「南ノ栫」、「伊豆殿屋敷」等の出城がある。
各曲輪間に空堀が巡り、遊歩道も整備され標識があり迷うことなく見学できる。築城当初の原形がよく保存され、土の城として全国でも有数の城と思われる。
【案内】 県道23号線「知覧役場前」交差点より県道232号線を1100mほど南下し、そこより西に町道を400mほど行くと見学者駐車場がある[マップコード 198 413 579*13 ](地図)。
近年の発掘作業で十五~十六世紀の中国陶磁や洪武通宝、東南アジアで生産された陶器が出土した。
平成五年(1993年)5月7日、国の史跡に指定された。
また知覧武家屋敷庭園保存会(南九州市知覧町郡6198)のある東西に伸びる道路の両側に「知覧武家屋敷」群が良く保存されている。
【歴史】 平安時代の末から鎌倉時代初めにかけて、この地は知覧院と呼ばれ、薩摩平氏の一族の知覧平忠益(知覧忠信とも)が郡司として治め地頭には初代島津忠久が当たっていた。
南北朝時代になると、郡司・平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝方に属して争い転戦し、ともに没落した。
室町時代の文和二年(1353年)足利尊氏の下文によって四代当主島津忠宗の三男・佐多忠光が軍功を認められ、郡司知覧忠世の遺領を得て領主となった。
その後、島津氏の内訌に伴い一時伊集院頼久一族の今給黎(いまきいれ)久俊の横領により配下となったが、応永二十七年(1420年)、8代島津久豐が伊集院一族からこの城を取り返し、再び佐多氏四代親久の居城となった。
その後、天正十九年(1591年)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の検地の命に背いたことから、領地を没収され、隣村川辺宮村に領地を移された。
十年後には知覧に復帰し、佐多氏は幕末まで知覧領主であった。
しかし、11代当主・佐多久達の時に知覧城は原因不明の出火で炎上し、一国一城令発令前に知覧城は実質上廃城となった。