平島館 (ひらしまやかた) (阿波公方館)
所在地 徳島県阿南市那賀川町古津339-1 2017.9.21
平島館 (ひらしまやかた) (阿波公方館)
所在地 徳島県阿南市那賀川町古津339-1 2017.9.21
阿波公方民俗資料館
土塁
供養塔・寿貞尼の墓
土塁・標柱
平島館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 阿波公方民俗資料館一帯に約110m四方の広さがあったらしい。東側の畑の中に土塁の一部があり、標柱が建てられている。
【案内】 県道27号線より北に少し行った「阿波公方民俗資料館」駐車場が用意されている[マップコード217 708 748*53]。
東の畑の中に土塁の一部があり、その前に供養塔群があり、頂上に「平島館跡」の標柱が建てられている(地図)。
【歴史】 天文三年(1534年)に足利義維(義冬)が阿波守護・細川持隆に招かれ3000貫の所領を得て平島館に入った。
永禄十一年(1568年)二月、義冬の子・義親(のち義栄(よしひで)と改名)は、阿波の有力大名に助けられ、病気の父に代わって上洛し室町幕府14代将軍となった。しかし在位7ヶ月で織田信長にその座を追われた。
江戸時代に入り、蜂須賀家政が阿波国に入国すると、蜂須賀氏は平島公方を軽視し、3000貫の所領から100石にまで削減され、4代義次を平島又八郎と名乗らせるなど、旧将軍家の権威を認めなかった。
9代平島公方・足利義根が文化二年(1805年)に京都へ移るまでの270年余、歴代平島公方が居住した。
足利義根の阿波立ち退き後、その遺構のいくつかは、阿波各地に移築されるなどした。