太閤ヶ平 (たいこうがなる) (秀吉本陣跡) (国の史跡)
所在地 鳥取県鳥取市栗渓町 2019.10.23
太閤ヶ平 (たいこうがなる) (秀吉本陣跡) (国の史跡)
所在地 鳥取県鳥取市栗渓町 2019.10.23
登城ルート(緑線は車道)
遊歩道入口(川の右)
1㎞地点の沢を渡り山道へ
搦手虎口
大手虎口・堀
大手虎口右側の土塁・堀
太閤ヶ平跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高230m】
【感想】 鳥取城の東方約1.5kmの尾根続きにある本陣山(標高251m)に築かれている。
大勢の兵を収容できる広さがあり、台形状の周囲に髙土塁、横堀が巡らされている。
日没近くで帰路の事もあり急いで回った為、全部見ていないが東側と南側の虎口付近は見応えがあった。
【案内】 鳥取県庁南の「栗谷町」交差点より東へ約600m行くと、「栗渓神社」(栗谷町32−1)がありその駐車場が利用できる[マップコード125 614 198*25]。
栗谷川の右側より東へ遊歩道を660m行くと道標があり、更に400m程先に旧道との分れの道標がある。山側の砂利道を約600m行くと舗装された管理道に出る。管理道を770m行くと無線中継所手前に着き説明板が建てられている(全歩行距離:2420m)。
内陣は東西約47m南北約36mで、東側に搦手虎口、南側に大手虎口が開かれている。
鳥取城に相対する西側の土塁上の両端には、夫々櫓台がある。大手虎口両側には水が貯えられたと見られる薬研堀が掘られている。
搦手虎口の外には兵馬の駐屯地があったと見られる広場があるが、現在無線中継所敷地となっている。
昭和三十二年(1957年)12月18日、国の史跡に指定された。
【歴史】 天正九年(1581年)羽柴秀吉の鳥取城包囲作戦と吉川経家の籠城戦の際に使用された。
織田信長の武将羽柴秀吉は姫路から但馬口を経て、天正九年(1581年)七月十二日に鳥取に到着し、鳥取城背後の東北の山頂(本陣山)に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて2万余の軍勢により1400余の守備兵の兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。
包囲後、3ヶ月を過ぎるころには「籠城兵糧つき、牛馬人等喰い候」という状況になった。
ついに十月二十五日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城下の真教寺で自刃した。時に35歳であった。
前日に本家吉川広家に宛てた遺言状に「日本二つの御弓矢境において腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と経家は記している。