草路城 (くさじじょう) (草内城)
所在地 京都府京田辺市草内宮ノ後5 2017.2.25
草路城 (くさじじょう) (草内城)
所在地 京都府京田辺市草内宮ノ後5 2017.2.25
咋岡神社
城跡碑
西側堀跡
境内北側空堀・土塁
【遺構★★☆☆☆ 】
【感想】 西側の道路は狭く、駐車スペースは少ないが、南西の「草内幼稚園」前の角が少し広く、辛うじて駐車できる。
鳥居左側、北側の境内に土塁、空堀が確認できた。周囲の水路も水堀跡と考えるのが妥当かもしれない。
【案内】 咋岡(くいおか)神社(表記番地)境内となっている[マップコード11 799 890*83]。
鳥居前に神社由緒、その先に「草路城跡」の石碑が建てられている。北側に土塁、空堀が残っており、周囲に堀跡が見られる。
【歴史】 応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。
南山城(みなみやましろ)でも例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていた。文明十七年(1485年)南山城の国人衆や農民らが両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。その際、農民らの立て籠もったのが草路城とされる。
明応二年(1493年)、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになった。これに反対する一部の国人衆は稲八妻城に立てこもって抵抗した。