多治比猿掛城 (たじひさるがけじょう) (国の史跡)
最寄地 広島県安芸高田市吉田町多治比1746 2018.12.8
多治比猿掛城 (たじひさるがけじょう) (国の史跡)
最寄地 広島県安芸高田市吉田町多治比1746 2018.12.8
登城ルート(緑線は車道)
教善寺入口・城跡碑
出丸・土塁
寺屋敷
本丸・土塁
本丸南の堀切
物見丸手前の堀切
物見丸・説明板
多治比猿掛城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高150m(物見丸)】
【感想】 毛利氏の本城吉田郡山城の西方約4kmの標高371mの烏帽子山から伸びた尾根先端部に築かれている。
南北約50mの細長い本丸を中心に、腰郭が3ヶ所残っている。南側尾根に堀切がある。
他に北西に出丸、南尾根上に物見丸が残されている。
【案内】 県道6号線より県道319号線へ入り、約700m先より左折して南下すると、「猿掛城跡」の石碑の入口に着き、少し先に説明板が建てられている[マップコード244 034 226*13] 。
教善寺(表記番地)の手前に駐車場があり、「毛利弘元」の墓が山裾にある。教善寺前を下ってゆくと、出丸の小山があり、3段の曲輪、土塁が残っている。
戻って教善寺山側より登ると、寺屋敷が2段になって残り、説明板が建てられている。
そこより登ってゆくと本丸に着く。南北に細長く、北端に土塁が残っており、説明板が建てられている。
標識はないが本丸南側の右手より下ると堀切があり、山道を南へ登ってゆくと、途中に堀切があり、物見丸に至る。標高432mの最高所の物見丸には説明板が建てられ、前後に堀切が残っている。
昭和六十三年(1988年)2月16日、国の史跡に指定された。
【歴史】 明応九年(1500年)に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に移り住んだ。
永正三年(1506年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となった。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動した(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。この城で毛利隆元や五龍局が生まれている。
大永三年(1523年)甥の幸松丸が夭折すると、27歳の元就が宗家を継ぎ、郡山城に移った。
その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。
実際、永禄六年(1563年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊し、その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。