玉造要害山城 (たまつくりようがいさんじょう) (湯ノ城)
最寄地 島根県松江市玉湯町玉造522 2015.5.16
玉造要害山城 (たまつくりようがいさんじょう) (湯ノ城)
最寄地 島根県松江市玉湯町玉造522 2015.5.16
登城ルート
玉作湯神社(右へ)
三の平
二の平
一の平・城跡碑
空堀
伝湯佐渡守家綱墓
玉造要害山城 一の平跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 県道25号線横の玉作湯神社(表記番地)駐車場が利用できる[マップコード163 286 228*34]。石段前を右に100mほど行くと説明板が建てられ、登り口がある(地図)。
西側に竹林となった広い「三の平」があり、同面の北に細長い四の平がある。三の平の上に小さな郭を経て「二の平」がある。
その南端に井戸が残っている。井戸より南に降ると深い空堀があり、南の土塁上に「伝湯佐渡守家綱墓」とされる祠が祀られている。
井戸の上段に「一の平」南西虎口があり、南から東にかけて土塁が残っている。北西虎口近くに「玉造要害山城跡」の碑が建てられている。比高約50mの城跡は小規模だが保存状態は良好である。
【歴史】 鎌倉時代、佐々木康清の七男頼清が湯荘に入り、湯氏を称して拝志及び湯の二郡を支配した。
元弘二年(1332年)頃、湯荘留守職諏訪部扶重が築城したと云われている。
富士名義綱(湯氏の支流)が南朝方として隠岐にあった時、湯荘留守職の諏訪部扶重が謀反を起こし、玉造要害山城も攻められ落城した。
南北朝時代、頼清の孫・出雲国守護代・湯伊予守秀貞が湯荘に入り、玉造要害山城を改修・増築した。
その後、湯荘支配の本拠地として湯氏代々の居城であった。天文十一年(1542年)には湯佐渡守家綱の名が記録に残っている。
永禄元年(1558年)に記された玉作湯神社の棟札に湯菊丸の名があり、戦国時代後期には、この湯氏の傍系が拠っていたものと考えられている。
玉造要害山城のその後は詳らかではないが、毛利氏が関わった可能性が指摘されている。