加久藤城 (かくとうじょう)
最寄地 宮崎県えびの市小田1102 2014.9.9
加久藤城 (かくとうじょう)
最寄地 宮崎県えびの市小田1102 2014.9.9
説明板
登城ルート(赤は本丸/緑は二の丸/青は大手門)
大手門跡
虎口
本丸跡・竃門神社
本丸跡・竃門神社
二の丸跡
加久藤城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【案内・感想】 国道221号線「えびの市松原」交差点の西40mより北に約650m行くと大手門跡がある[マップコード195 203 239*42](地図)。
駐車場はないので、大手門南の廃屋に駐車し、西に登ると水源地や枡形があり、更に登ると比高約40mの山頂の本丸跡で、梅林となり北に竃門神社があり土塁が残っている。
東に二の丸跡があり、土塁が残っている。
東約4㎞の飯野城とは連絡道で結ばれ、その途中には西から大明神城・掃部城・宮之城の順に塁が存在した。
【歴史】 応永年間(1394~1428年)真幸院の領主・北原氏が、小田村の山に「久藤城(ひさふじじょう)」を築き、徳満城の支城とした。
永禄七年(1564年)五月に島津義弘(忠平)は中城と新城を縄張りに加えて「加久藤城」と名を改め、加世田よりここに移った。同年十一月十七日城主・北原兼親氏が伊集院に移封されると同時に義弘は飯野城に移り、加久藤城には川上忠智を城代とし、義弘の正室(広瀬氏)と嫡子の鶴寿丸(つるひさまる)ら五男一女を住まわせた。
伊藤義祐との間で元亀三年(1572年)五月四日に「木崎原の戦い」が起きた。
伊藤氏の軍勢は間違えて樺山浄慶の屋敷を攻撃後、計略に掛かり鑰掛口から城を攻め、 忠智は遠矢良賢の率いる飯野城からの援軍を得て撃退し、伊藤軍は壊滅的敗戦を喫した。
天正四年(1576年)に鶴寿丸が八歳で病死すると、城中に墓をつくり葬った。現在、城へ向かう途中にある墓石は、明治元年頃に神道式に改築されたものである。 また義弘は、飯野城近くの地頭仮屋があった場所(現・えびの市役所 飯野出張所敷地内)に鶴寿丸の供養樹を植えており、現在も「飯野の大銀杏」として残っている。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により廃城となった。