久玉城 (くたまじょう) (県の史跡)
最寄地 熊本県天草市久玉町1963 2017.5.10
久玉城 (くたまじょう) (県の史跡)
最寄地 熊本県天草市久玉町1963 2017.5.10
登城ルート
家屋城門跡・石垣
桝形虎口・石垣・3郭
3郭西の高石垣
2郭・土橋
主郭
主郭北の堀切
久玉城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【感想】 久玉町北部の馬蹄形をした標高41mの半島状尾根上にある。高石垣、桝形虎口や北尾根堀切などよく残っている。
【案内】 国道266号線の市立久玉小学校(表記番地)向いの丘陵先端部にある[マップコード299 784 159*66]。国道に路肩駐車できるが、パトカーがたまに巡回しているので注意を要する。
馬蹄形上の郭を配置し、西部分に3郭、2郭、主郭が並んでいる。北側に堀切があり、3郭2郭の西側に高石垣残っている。このほか、井戸、桝形虎口などが残っている。
昭和四十八年(1973年)3月28日、熊本県の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期は定かでないが、久玉の領主であった久玉氏により築かれたと伝えられている。明応十年(1501年)天草一揆中(天草の国人領主8氏)の1氏と数えられており、このころ居城として機能していたと考えられる。
久玉氏は16世紀前半、河内浦城の天草氏の傘下に入ったとされる。
永禄十二年(1569年)天草氏はキリスト教を導入しようとする当主天草尚種(ドン・ミゲル)と反対する2人の弟との間に内紛が発生し、久玉城は弟方に占拠された。
2人の弟は島津薩州家(島津義虎)や相良氏の支援を受け、天正二年(1574年)まで久玉城に籠もり抵抗したが、尚種に敗れ天草を追われた。
これ以後、久玉地方でもキリスト教が広まり、宣教師の記録では天正八年(1580年)に「司祭館が久玉城に作られ司祭1人が在住した」と記されている。
関ヶ原の戦いの後、慶長六年(1601年)天草は唐津藩寺沢氏の飛び地領となり、久玉城は寺沢氏により大改修が行われた。高石垣はこのときのものとされている。