水口岡山城 (みなくちおかやまじょう) (水口古城)
最寄地 滋賀県甲賀市水口町水口610-17 2014.9.2
水口岡山城 (みなくちおかやまじょう) (水口古城)
最寄地 滋賀県甲賀市水口町水口610-17 2014.9.2
登城ルート
西の丸跡
竪堀跡
本丸北石垣
本丸跡・阿迦之宮
空堀
二の丸跡
水口岡山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【案内・感想】 甲賀市立城山中学校(表記番地)の南より西に登る[マップコード67 202 130*45](地図)。
西に反時計まわりに800mほど行くと、滑り台、ブランコ、四阿のある曲輪(地図)がある。水口小学校東の国道307号線横よりも登れる(地図)。そこより階段を登ると忠魂碑が建てられている。
忠魂碑横を登り駐車場(地図:配水池前に通行止めがあり、普段車は通行できない)に出て、更に登ると「伝西の丸」がある。
その東に竪堀が残り、北東に行く、本丸石垣が残っている。標高283m比高約80mの古城山頂上に本丸があり、東西に細長い形状を持ち、土塁が残り、「阿迦之宮」に三代城主長束正家が祀られている。
東端のわずかに高い場所が天守台跡で発掘調査が行われていた。本丸を南に下った帯曲輪の東端に「食い違い虎口」が見られる。
その東に「伝二の丸」、「堀切」「伝三の丸」と並び東端に下がった所に「出丸」がある。
城跡南西の水口小学校(水口町本町1丁目2−1)からも登れる。
【歴史】 中世から戦国期にかけて「甲賀衆」「甲賀武士」と呼ばれる在地領主(国人・土豪)が甲賀後を支配していた。
村々に城を築き自らの力で自らの地を守る「自治連合組織」を作って地域を守った。「同名中」「郡中惣」と呼ばれる甲賀独特の組織であった。
羽柴秀吉は甲賀衆を改易させ、東海道と内陸部の押えとして中村一氏(かずうじ)に命じ天正十三年(1585年)水口岡山城を築き、中村一氏を城主とした。
その時、平安の昔から、都から伊勢へと通じる街道の要所として栄えていた宿場町水口の原型をつくった。
その後、天正十八年(1590年)に増田長盛が、文禄四年(1595年)には長束(ながつか)正家と五奉行を務めた二人が相次いで入城した。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは長束正家は西軍に属し、毛利秀元・吉川広家と共に南宮山に布陣していたが、本戦には参加できず敗走し、水口岡山城に籠城したが追ってきた池田長吉らに攻められ、日野佐久良谷で自刃した。
一旦、池田長吉の預かりとなったが、戦後処理として廃城となった。