尾高城 (おだかじょう) (泉山城) (市の史跡)
最寄地 鳥取県米子市小高2347 2015.5.16 2022.10.14
尾高城 (おだかじょう) (泉山城) (市の史跡)
最寄地 鳥取県米子市小高2347 2015.5.16 2022.10.14
配置図
小鷹泉山城石碑
南大首郭の空堀と土塁
南大首郭の土塁
方形館跡・奥が本丸
中の丸
本丸空堀
本丸・土塁
尾高城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 宿泊施設「シャトーおだか」(表記番地)の駐車場前に「小鷹泉山城・杉原盛重居城址」の大きな石碑が建てられ、日本庭園が天神丸である(地図)。
また、道路橋を渡って北に行った「米子勤労者体育センター」(表記番地) の前に説明板が建てられている[マップコード252 604 116*55] 。
その東に武家屋敷跡が平面復元され、空堀土塁のある南大首郭がある(地図)。
中の丸は「桜の園」となり、その北の森となっている本丸跡であり、本丸には土塁がよく残っている。 その北に二の丸がある。
本丸手前に方形館跡「ゲートボール場」(地図)があり、他に梅林等になっている越ノ前郭、Ⅳ郭がある。計8郭から構成され土塁空堀で分けられている。米子市の史跡に指定されている。
【歴史】 大永四年(1524)、大永の五月崩れ(尼子経久の伯耆侵攻)によって落城、尼子氏の支配となった。
城主行松正盛は流浪し、尼子方の吉田光倫が城主となった『伯耆民談記』。
永禄五年(1562年)、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、行松正盛が再び城主となった。
永禄七年(1564年)、行松正盛が病死し、毛利氏家臣の杉原盛重が城主となった。
永禄十二年(1569年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛らにより、一時城を奪われた『陰徳太平記』。
天正九年(1581年)、杉原盛重が八橋城において没し、家督を嫡男元盛が継いだ『伯耆民談記』。
天正十年(1582年)、伯耆国佐陀(現在の米子市淀江町佐陀)に居た杉原景盛は、兄元盛を謀殺した。
同年、杉原景盛は毛利氏に攻められ戦死し、吉田元重が尾高城に在番した。
慶長六年(1601年)、伯耆国領主中村一忠が一時尾高城に入るが、米子城へ移り、廃城となった。