蕪丸城 (かぶらまるじょう) (奥谷城)
最寄地 兵庫県丹波篠山市殿町880 2019.9.21
蕪丸城 (かぶらまるじょう) (奥谷城)
最寄地 兵庫県丹波篠山市殿町880 2019.9.21
登城ルート
登り口・説明板
居館跡
南郭・主郭切岸
主郭(北側)
北郭北の堀切
蕪丸城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【感想】 八上城のある高城山(浅路山)から南へ派生した尾根先端(標高279m)に築かれている。
南北に細長い主郭があり、その南と北に夫々郭を配している。北側尾根の大堀切とそれに続く竪堀は圧倒的である。また西斜面を掘削して造成した館跡も堅固な構えとなっており、大手虎口と共に見応えがある。
【案内】 国道372号線「八上内」交差点の西より南へ入った表記番地先に駐車場スペースがあり、登り口、説明板が建てられている[マップコード155 795 317*02]。
坂を登るとすぐに堀があり、大手虎口の左に居館跡、右上方に帯状の平坦地がある。急な坂を登ると主郭に着く。
平成六年(1994年)5月20日、丹波篠山市の史跡に指定された。
【歴史】 室町時代中期、波多野清秀が石見国から上京して、室町幕府の管領・細川勝元に仕え、応仁の乱に際して各地で軍功を挙げ、細川政元の時に多紀郡を与えられた。
波多野清秀の子・稙通の代になって、永正年間(1504~21年)に八上奥谷に蕪丸城を築き、続いて浅路山(高城山)に八上城を築いたといわれる。
その後、波多野氏は元秀・秀忠・晴道・秀治と続き、主として八上城を本城として活躍し、蕪丸城はその根城的な役割を持ち、奥谷城とも呼ばれるようになった。
天正七年(1579年)に織田信長の命を受けた明智光秀による兵糧攻めにより六月に八上城は落城し、秀治は同年六月に処刑され波多野氏は滅亡した。その後、蕪丸城は廃城となったと考えられる。