神吉城 (かんきじょう) (真名井城・奈幸子城)
所在地 兵庫県加古川市東神吉町神吉1413 2017.9.24
神吉城 (かんきじょう) (真名井城・奈幸子城)
所在地 兵庫県加古川市東神吉町神吉1413 2017.9.24
常楽寺南側
常楽寺本堂
神吉頼定の墓
西側の道路
神吉城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 神吉城本丸跡に常楽寺境内となり、常楽寺の本堂裏には城主神吉頼定の墓がある。
常楽寺西側に狭い道路があり堀跡と思われる。西には「西の丸」の民家や真宗寺がある。東の丸は狭い道を挟んで住宅地となっている。
【案内】 県道43号線「東神吉西」交差点より東へ行き、「東神吉町」交差点の次を右折、南下し真宗寺北を左折して100mほど行くと常楽寺(表記番地)の北側に駐車場がある[マップコード24 174 056*45] 。周辺の道は狭く通行には注意を要する。
神吉城は神吉の集落全体が城域で、中の丸(本丸:常楽寺)・東の丸・西の丸(真宗寺)・二の丸の4つの曲輪を持つ縄張りの城で、中の丸には低層ながらも天守閣が建てられていたという。
【歴史】 南北朝時代、赤松則村(円心)の子孫・神出城主赤松範次(神出左衛門範次)が印南郡神吉庄を領して神吉城を築き、子・元頼が神吉城主となり神吉氏を称した。
元中八年/明徳二年(1391年)に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱で、神吉氏は幕府方で功績を残したといわれる。
天正六年(1578年)二月、加古川城での毛利討伐の軍議で別所氏と羽柴秀吉が決裂し三木合戦が始まるが、城主神吉頼定は同じ赤松氏一族の別所氏についた。
周辺の野口城・志方城・高砂城と共に守りを固め、頼定は三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。
しかし、秀吉は周囲から落とす作戦に切り替え、まず四月六日に野口城が落城し、続いて六月二十三日に神吉合戦が始まった。
頼定は兵約2千人で籠城し、対する秀吉勢は織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万人で攻め、七月十六日に神吉城は落城したとされる。