宇土古城 (うとこじょう) (国の史跡)
最寄地 熊本県宇土市神馬町577 2013.6.9 2017.5.9
宇土古城 (うとこじょう) (国の史跡)
最寄地 熊本県宇土市神馬町577 2013.6.9 2017.5.9
登城ルート(赤は千畳敷/緑は三城)
千畳敷内堀・土橋・土塁
千畳敷南西側内堀
千畳敷・建物跡
三城・城跡碑
三城建物跡
三城西側土塁・排水溝
宇土古城 千畳敷跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 宇土市街の南西の西岡台と称される標高40mの独立丘陵に築かれており、千畳敷、三城(地図)と呼ばれる二つの曲輪からなる。説明板が要所に設けられ、保存状態は良い。
【案内】 「西岡神宮」(表記番地)の西、古城の南に駐車場が用意されている[マップコード29 032 023*05]。駐車場は、以前は千畳敷東にあったが、移転していた。
馬場跡の西に、千畳敷の虎口がある。千畳敷周囲に堀や土塁が残っており、南側に外堀の一部が復元されている。曲輪には休憩所や建物跡が平面復元されている。
西に谷を挟んで三城があり、切岸が残る。南西側には、幅約10m、全長約300mの横堀跡がある。
東約400mに宇土城(宇土城山公園)がある。
昭和五十四年(1979年)3月12日、「宇土城跡」の名称で国の史跡に指定された。
【歴史】 宇土古城の南東にある西岡神宮の古文書によれば、平安時代の永承三年(1048年)菊池氏により築城され代々城主となった。
室町時代、元徳二年(1330年)には菊池氏の一族の宇土高俊が城主となり勢力をふるった。
文明十六年(1484年)宇土為光は菊池道朝と富合町で合戦に及び、文亀三年(1503年)宇土為光は守護菊池能運(よしゆき)と争い、敗れて殺害され宇土氏は滅亡した。
西岡台には菊池氏家臣の城為冬が入城するが、永正元年(1504年)に22代当主菊池能運(よしゆき)が急死すると城氏は没落し、空城となった。
一方、名和氏は室町時代初めから古麓城(八代市古麓町)を本拠にしていたが、文亀四年(1504年)相良氏と菊池氏に攻められ、為光の娘婿である名和顕忠は八代(やつしろ)を出て、宇土氏の旧城に入った。
以後80年余、名和氏は宇土城主になり、相良氏と豊福城をめぐって何度も争った。
相良家の古文書によれば、宇土古城は天文七年(1538年)と同十一年(1542年)の二度にわたって火災が発生したことが記されている。
天正十五年(1587年)に行われた豊臣秀吉の九州征伐に際し、名和顕孝は秀吉に降伏するが、同年に起きた肥後国人一揆に際し弟の顕輝が開城勧告を拒否したため、秀吉軍に討たれ滅亡した。
廃城時期は、小西行長が近世宇土城を築城始めた天正十七年(1589年)以降と考えられている。