山上陣屋 (やまかみじんや) (稲垣陣屋)
最寄地 滋賀県東近江市山上町447 2019.7.6 2019.9.18
山上陣屋 (やまかみじんや) (稲垣陣屋)
最寄地 滋賀県東近江市山上町447 2019.7.6 2019.9.18
説明板
元天神社鎮座地の碑・陣屋説明板
公園・殉国碑
陣屋跡
山上陣屋跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 愛知川左岸の駐車場に説明板があり、その南側一帯が陣屋跡である。
住宅地となり、遺構のような石垣があるのみで、他には何も見られない。
【案内】 県道188号線「紅葉橋南詰」交差点横に駐車場があり、「殉国碑」、「元天神社鎮座地」の石碑、「山上藩の変遷と陣屋跡」の説明板が建てられている[マップコード453 891 053*70]。
【歴史】 鎌倉時代から室町時代まで小倉氏が支配した山上は信長没後の天正十一年(1583年)、秀吉は最初の知行改めとして、北政所ねねの叔父・杉原家次(坂本城主)に山上庄2,336石を宛がったが、家次は翌年他界した。次に秀吉は五奉行の筆頭で高台院ねねの義従兄・浅野長政(大津城主)の知行地に加え八風越えに備えた。
天正十九年(1591年)、秀吉は信長の遺児織田信高に庄内1,060石を与えたが、慶長四年(1599年)、他に変えられた。
元和五年(1619年)、山上は家康の天下制覇の最功労者、安藤重信(高崎城主5万6千石、後に老中職)の所領となり重長、重博(老中職)と継承され、元禄八年(1695年)五月、備中松山に転封後は一時天領となった。
元禄十一年(1698年)五月、譜代重信の稲垣長氏の孫、重定(1万3千石、若年寄)の筆頭所領となったが稲垣氏は幕閣の重鎮、江戸定府大名で参勤交代もなく藩政は大津蔵役敷で代行された。
のち定淳(大阪定番職)の寛政六年(1794年)十二月、始めて山上陣屋(現在地の南側一帯)が構築された。
明治二年(1869年)版籍奉還で藩主稲垣太清は、家臣72世帯と共に山上に帰ったが藩士宅9軒、長屋11軒の完成まで村内の安養寺等に寓居し藩知事の職務を執行した。『現地説明板より』