淀城 (よどじょう)
最寄地 京都府京都市伏見区淀本町174−71 2014.4.30
淀城 (よどじょう)
最寄地 京都府京都市伏見区淀本町174−71 2014.4.30
稲葉神社
淀城址碑
天守台
本丸石垣(奥が天守台)
堀(西側)・石垣
淀城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 現在の京都市伏見区の京阪本線「淀駅」前のコンビニ(表記番地)の西に有料駐車場がある[マップコード7 251 198*05]。
城跡の西と南面に堀があり石垣が良く残っており、南東隅に天守台石垣が残っている。
本丸跡には稲葉家初代・稲葉正成公を祀る稲葉神社や與杼神社(よどじんじゃ)が建っており、広場は遊園地として開放されており、西に淀城址碑・慰霊碑が建てられている。井戸が稲葉神社の横に残っている。
北西の堀付近には藩主永井尚政の指示で、城内に水を引き入れるための「淀水車」が復元されている。現在、淀城は城郭に伴う再建造物はないが、本丸や石垣を利用した淀城跡公園が昭和四十三年(1968年)に開園した。
しかし、京阪電気鉄道の淀駅高架化事業に伴い淀城公園も再整備される計画がある。本丸には実物大の櫓建物や、東側駐輪場のため埋め立てられていた内堀を復元する計画となっている。
【歴史】 『徳川実紀』によると元和九年(1623年)八月、二代将軍徳川秀忠からの命で松平定綱が山城国淀藩へ所領3万5千石で入部を命じられた。
その後『淀下津町記録』によると河村右衛門の屋敷跡に江戸幕府の援助によって築城され、寛永二年(1625年)に完成し、松平定綱は淀城の最初の城主となった。
その後、松平定綱は備中国へ移封され、寛永十年(1633年)永井尚政が古河藩より十万石で入部し城下町の拡張と侍屋敷の造営が行われた。
その後、寛文九年(1669年)には石川憲之、正徳元年(1711年)には戸田光凞(みつひろ)、享保二年(1717年)には松平乗邑(のりさと)が6万石で入部した。
その松平乗邑が下総国に転じた後は、享保八年(1723年)に稲葉家5代・稲葉正知が十万石で城主となったのち、幕末まで稲葉氏が城主を務めた。
宝暦六年(1756年)の落雷により天守や建物の大半が焼失し、徳川幕府は再建に1万両を淀藩に貸し付けたが、天守や本丸御殿は再建されなかった。
幕末の慶長四年(1868年)、旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとするが、淀藩に拒絶された。淀城は大阪城などと共に西国に睨みを利かすために築城されたが、皮肉にも官軍の勝利に一役買うことになった。
この時の兵火で淀城の城下町と城内の一部が焼失してしまった。明治四年(1871年)の廃藩置県による淀藩の廃藩に伴い、淀城は廃城となった。