唐津城 (からつじょう) (舞鶴城)
所在地 佐賀県唐津市東城内8‐1 2011.10.6 2019.12.14
唐津城 (からつじょう) (舞鶴城)
所在地 佐賀県唐津市東城内8‐1 2011.10.6 2019.12.14
二の門堀
虎口石垣
総締門石垣
北から見た天守
北東隅櫓
西側の高石垣
唐津城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 松浦川に架かる橋の西に駐車場が用意されている[マップコード182 402 797*60](地図)。駐車場の北に模擬築地塀があり、石段を登ると虎口高石垣、総締門がある本丸跡である。
五重五階模擬天守(RC造)や復興隅櫓・門が建てられている。展望台からは唐津市街や唐津湾、「虹の松原」の絶景が望める。唐津湾と松浦川の支流に挟まれた半島の先端満島山に本丸(表記番地)があり「舞鶴公園」になっている。
西麓に二の丸跡(地図)があり、早稲田佐賀高校(唐津市東城内7‐1)や住宅地となり、北には海水浴場がある。
水堀(二の門堀)が復元され(地図)、その西が三の丸で「旧高取邸」(唐津市北城内5‐40)が国の重要文化財となっている。
また北城内、南城内、西城内の地名が残り、大志小学校などの敷地となり、市街地化している。
【歴史】 文禄四年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡(富岡城)4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。
慶長七年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長十三年(1608年)に完成した。
築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更し、防風林を造り虹の松原の保護育成を行った。
廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。
二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていた。天守は天守台までしか建築されなかった。
広高の子の堅高は、天草の冨岡城が島原の乱で一揆側に攻められ、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。
堅高は、正保四年(1647年)に江戸藩邸で自殺し、嗣子が無く寺沢家は断絶となった。一時天領となるが、以後、譜代五家が入れ替わった。
慶安二年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が城主となった。延宝六年(1678年)大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城した。
元禄四年(1691年)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城した。
宝暦十二年(1762年)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城した。
明和八年(1771年)「虹の松原一揆」が発生した。
文化十四年(1817年)に、後に天保の改革を行った水野忠邦が出世目的に遠江浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後明治維新まで小笠原氏の居城となった。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城となり、払い下げにより建造物が解体された。
明 治十年(1877年)舞鶴公園として整備、開放された。
昭和四十一年(1966年)文化観光施設として五層五階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された。
平成元年(1989年)唐津市役所前に肥後堀と石垣が復元された。
平成四年(1992年)「二の門」交差点北西に「時の太鼓」が復元された。翌年、「大手口」交差点北西の市役所(西城内1)に三の丸辰巳櫓が復元された。