福山城 (ふくやまじょう) (久松城・葦陽城) (国の史跡・日本100名城71)
所在地 広島県福山市丸之内1‐8 2011.10.7 2015.5.4
福山城 (ふくやまじょう) (久松城・葦陽城) (国の史跡・日本100名城71)
所在地 広島県福山市丸之内1‐8 2011.10.7 2015.5.4
本丸高石垣
筋鉄御門
五重五階天守
伏見櫓
鐘櫓
福山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 三の丸は平野部となっていて、東は現在の丸之内町の大半、西は広島県立歴史博物館、南は福山駅、福山ニューキャッスルホテル、北はふくやま文学館、ふくやま市民交流館などの敷地となっている。
ふくやま文学館(福山市丸之内1丁目9−9)に駐車させてもらった[マップコード48 568 579*70] 。内外の堀は埋められ二の丸・本丸の石垣、石塁が築城当時の姿を伝えている。
二の丸は本丸を囲む帯曲輪で西から北東にかけて二段に分かれている。
本丸には国の重要文化財の伏見櫓・筋鉄御門(昭和八年(1933年)1月23日指定)や市の重要文化財の鐘櫓(昭和五十四年(1979年)復元10月26日指定)が残されている。
天守・月見櫓・湯殿は昭和四十一年(1966年)に夫々外観復元された。 昭和三十九年(1964)2月7日、「福山城跡」として国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(71番)に選定された。
【歴史】 元和五年(1619年)関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則が、広島城修築に関して武家諸法度違反により改易され、信濃高井郡に移された。
備後10万石の領主として入封した水野勝成が神辺城に入り、南南東6㎞の常興寺山に3年にわたり築城したのち移った。
低い丘陵を利用した輪郭式平山城で東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、小丸山・天神山を天然の防塁とした。
水野勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続いたが、元禄十一年(1698年)五代藩主水野勝岑(かつみね)の早世により無嗣除封となり、福山藩は一時的に天領とされた。
元禄十三年(1700年)、出羽国山形藩より松平忠雅が水野時代から5万石分の領地を削減された10万石で入封した。
しかし、忠雅は十年後の宝永七年(1710年)に再び伊勢国桑名藩に移封させられ、同年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封した。
阿部氏9代正方の時、慶応元年(1865年)第二次長州征伐参加のため石見国へ出兵し、長州軍との戦いで完敗し、兵を引き揚げた。
その後福山藩は幕末の動乱を傍観していたが、第二次長州征伐から三年後の慶応四年(1868年)一月九日に西国における幕府側の重要な拠点であった福山城が初めての攻撃を受けることになった。
新政府軍(長州軍)は徳川譜代である福山藩を朝敵と見なし備後国へ侵攻した。福山藩はこの直前に藩主阿部正方が、嗣子がないまま急死したが、福山藩は幕末の混乱に乗じて安芸広島藩主浅野長勲の実弟阿部正桓を養子に迎えることでお家断絶を回避し版籍奉還を迎えた。
廃藩置県により福山藩は福山県となり、それから数年の間に県名や県域の変更を繰り返した。
福山城は明治六年(1873年)の廃城令により廃城とされ、民間に払い下げられ、天守、伏見櫓、筋鉄門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓、などが残されるのみとなった。
昭和二十年(1945年)8月8日、米軍の空襲(福山大空襲)により伏見櫓・筋鉄御門を除く天守、御湯殿、涼櫓や城下に残る多くの文化財が焼失した。