福山城 (ふくやまじょう) (国の史跡)
最寄地 岡山県総社市西郡1009 2017.12.16
福山城 (ふくやまじょう) (国の史跡)
最寄地 岡山県総社市西郡1009 2017.12.16
登城ルート
福山城・幸山城の分れ
二の段・門跡
土塁・石列
一の段 ・石碑
三の段・石列
福山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高270m】
【感想】 山陽道の北に位置する標高302.8mの福山頂上に築かれている。
南北に細長く3つの郭から成り、門、石列、土塁で仕切られている。一の段・二の段西側には浅い空堀が残り、井戸跡が残っている。
【案内】 県道270号線「西郡」交差点より南に700mほど行った用水路の横に1台の駐車スペースがある[マップコード19 841 314*11](地図)。
登り口より遊歩道が設けられ約500m登ると「幸山城跡」との分れに着き、直進し約900m登ると、福山城跡に着く。
昭和十一年(1936年)12月16日、総社市の史跡に指定された。
【歴史】 奈良時代より平安時代にかけて山岳寺院「福山寺」が存在していた。鎌倉時代末期の建武二年(1335年)に荘(庄)兼祐がこの山岳寺院を改造し城郭とした。築城主は真壁是久とも言われる。
建武三年(延元元年、1336年)二月、九州に敗走していた足利尊氏が30万人とも言われる軍勢を擁し東上を開始した。備後国鞆の浦で軍は海上を行く尊氏軍7,500隻と、陸上を行く足利直義軍20万人の二手に分かれた。
四月三日、後醍醐天皇方の新田義貞軍の先鋒隊大井田氏経は足利方に加担していた城主の庄兼祐を追放し、足利軍の東上を阻止すべく籠城した。
足利軍は五月上旬に備中国に達し、五月十四日にはこの地に到着し城を包囲した。直義の率いる足利軍20万人に対し、大井田軍は僅か1,500人であったとされる。五月十五日夕刻より攻城戦が始まった。籠城軍はよく奮戦し、足利軍は2万の死傷者を出した。
しかし、大軍を前には抗しきれず十七日には火をかけられ落城した。大井田氏経は僅かに400人ばかりとなった将兵と共に足利軍の布陣を突破した。20回以上の戦闘を繰り返しながら本陣のある播磨国との国境にほど近い備前国三石城に逃れた。
この戦いの7日後には楠木正成が戦死した湊川の戦いが行われた。