上津浦城 (こうつうらじょう)
最寄地 熊本県天草市有明町上津浦793 2017.5.10 2018.5.5
上津浦城 (こうつうらじょう)
最寄地 熊本県天草市有明町上津浦793 2017.5.10 2018.5.5
登城ルート(赤は西城/緑は東城)
老岳登山口バス停
民家左の東城登り口
東城南東の空堀
東城主郭・放送塔
東城北西腰郭1
西城入口
八坂神社
西城3郭・2郭坂虎口
西城2郭土塁
西城主郭・土塁
西城主郭南東の腰郭
上津浦城 東の城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【感想】 手摺が設けられ一時は整備されたのだろうが、訪れる人も少なく藪化していた。全体は把握できていないが、幅約5mの空堀が残っていた。
川を挟んで西に向かい合った丘陵に西の城がある(地図)。こちらは、案内図などもなく見落した。
2回目の訪城で西の城に登ってみた。北西の農道横に八坂神社への参道がある。神社右より登ると3郭に出、坂虎口を備えた2郭があり、西側に土塁が残っていた。2郭の東に主郭があり、東下段に腰郭、南に帯郭が草茫々の中に残っている。
【案内】 県道282号線の城山の南に「老岳登山口」バス停があり、その右の石垣のある民家の左に、手摺の設けられた登り口がある[マップコード254 532 814*80](地図)。
登ってゆくと間もなく郭があり、その北西に空堀、切岸を伴った東の城主郭がある。さらに北西の下段に腰郭が、2段ほど残っている。
東の城主郭は草木が鬱蒼とし、放送用スピーカーの電柱周辺だけが刈りこまれていた。
西の城へは県道282号線より南へ農道を約300m進んだ八坂神社参道から登る[マップコード254 531 885*71](地図)。若干の駐車スペースがある。
【歴史】 『本渡市史』によると、上津浦氏は大蔵氏の末裔とされ、天草諸島の国人衆「天草五人衆」(天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏)の一つである。上津浦城の築城時期は定かでないが、上津浦氏の居城とされる。
享禄五年(1532年)天草・志岐・栖本・大矢野・長島氏など天草一円の豪族が上津浦を攻めたが、相良氏の援軍を得てこれを凌いだ。
上津浦鎮貞(しげさだ)は豊後国の大友義鎮(宗麟)から偏諱を受けたと思われる。相良氏の影響下にあったが、天正十年(1582年)、島津氏が肥後に侵攻するとこれに従属した。
鎮貞の子種直の時、天草五人衆は豊臣秀吉の九州平定の際、臣従して本領を安堵された。
天正十七年(1589年)小西行長の宇土城普請の要求を、志岐鎮経や天草種元ら天草五人衆と共に拒否し反乱を起こした(天草国人一揆)。
しかし、これは小西行長や援軍に来た加藤清正によって鎮圧され、種直は降伏し、領地を没収された。以後、小西氏に臣従した。