乙子城 (おとごじょう)
最寄地 岡山県岡山市東区乙子124 2014.9.2
乙子城 (おとごじょう)
最寄地 岡山県岡山市東区乙子124 2014.9.2
登り口(奥の鳥居)
二の丸・乙子大明神
虎口
本丸跡
乙子城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 千町川の橋を渡り吉井川との間の標高40m程度の丘陵に位置する。表記番地前の登り口付近は宅地で道が狭く、駐車場は近くにはない[マップコード151 155 065*38]。
乙子大明神の鳥居(地図)をくぐり参道を登り墓地を過ぎて登ると、比高約40mの山頂に本丸跡がある。
二の丸跡は乙子大明神の敷地となっている。そのほか腰曲輪は墓地になっている。この地に城が構えられていた時代は、丘陵は河口に突き出していた。その丘陵に連郭式に曲輪が構えられていた。
【歴史】 戦国時代後期に天神山城に拠点を置き、備前国に覇を唱えた浦上宗景は、天文十三年(1544年)上道郡を領する松田氏、児島郡を領する細川氏、更には瀬戸内海の海賊の攻撃を防ぐため、児島湾への睨みの利くこの地に築城し、知行3百貫足軽30人を付けて宇喜多直家に守らせた。
宇喜多直家は同年、備前の守護大名赤松晴政との合戦に初陣し武功をたて、宗景より最初に任された城であると伝えられている。
しかし、『吉備前秘録』によれば直家の祖父・能家が在城していたとも、『戸川記』によれば父・興家が守将となっていたとも伝えられている。
祖父・能家が暗殺されて後、没落していた宇喜多家の再興が成り各地に散っていた旧臣も直家のもとに集まったといわれる。しかし、家臣の割に知行が少ないため困窮を極め、家臣団は近隣で盗賊行為を行っていたと『戸川記』などは伝えている。
直家は弘治二年~三年(1556~57年)頃、武功により浦上宗景より奈良部城(新庄山城)を与えられた。
『備前軍記』によれば、その後、乙子城は弟の忠家が預かった。さらに、永禄二年(1559年)直家は沼城(亀山城)に本拠を移し忠家も移った。
その後は、児島湾の押さえとして、天正十年(1582年)頃まで機能していたと思われる。直家の子、秀家の時代になると備前国は平定され、その役割を終えた。