勘次ヶ城 (かんじがしろ) (山崎石塁) (県の史跡)
最寄地 長崎県五島市富江町岳1821 2014.9.5
勘次ヶ城 (かんじがしろ) (山崎石塁) (県の史跡)
最寄地 長崎県五島市富江町岳1821 2014.9.5
説明板
石塁・標柱
石塁
石塁
倭寇像
勘次ヶ城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 市道の表記番地西の交差点(地図)より南に海岸伝いに約800m行くとムシマ鼻の先に駐車場が用意されている。
五島灘に向かって倭寇像があり、その東に海岸に面して勘次ヶ城跡がある[マップコード334 020 211*30]。
火山礫を積み上げて構築された石塁で囲まれている。中央部の石垣は崩れているが2、3m高くなっている。景観は沖縄のグスクと似ている。
昭和四十五年(1970年)1月16日、県の史跡に指定された。
【歴史】 中世の大陸貿易や倭寇の活動拠点、または江戸時代の抜け荷(密貿易)の拠点であったと伝えられている。
江戸時代末期に勘次と云う元船大工が居住した為、勘次ヶ城と呼ばれる。
【逸話】 勘次は腕の良い船大工であったが、富江藩の大船を建造中に突然行方を眩ましてしまい、仲間が心配して捜索した所、玉の浦の海岸に正気を失っているところを見つかった。
その後、人目を避けて石塁跡に住みつき、「此の石塁は毎夜河童と共に築いたものじゃ」と村人に語っていたと云われる。
その昔、勘次の父が難破船から金を拾おうとしたところ、船頭の幽霊が居座って拾うことが出来なかった。「死人には無用の物、一日たりとも祭祀を欠かさぬので、金を下され」と誓ったところ海中に消えて行った。
勘次の父は祭祀を欠かさなかったが、勘次は祭祀を止めてしまったので祟りに遭ったのだと、伝えられている。『説明板』より。