篠向城 (ささぶきじょう) (篠葺城・笹向城)
最寄地 岡山県真庭市大庭246 2021.12.8
篠向城 (ささぶきじょう) (篠葺城・笹向城)
最寄地 岡山県真庭市大庭246 2021.12.8
登城ルート
登り口・説明板
三の丸
三の丸西の竪堀群
二の丸・無線中継施設
本丸
本丸南の腰郭
腰郭南の畝状竪堀
篠向城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高250m】
【感想】 旭川左岸の標高419mの篠向山に築かれており、3つの山頂にそれぞれ曲輪が配置されている。
三の丸西の竪堀群や本丸南の畝状竪堀は見どころの一つとなっている。
【案内】 真庭市大庭の公民館のような建物(表記番地)横に駐車できる[マップコード235 826 236*37]。
東に少し行くと民家横に説明板が建てられている。倉庫横のゲート(地図)から林道が二の丸まで通じているが、ゲートが車用とは思えず、約1.2kmを歩くことにした。
西側の三の丸は南北に細長く広い。北側の一段高くなったところに金田屋敷があり、南側に腰郭、西側斜面に25条の竪堀群がある。二の丸には無線中継施設があり、北側に土塁と堀切が残 っている。
本丸は東側の山頂にあり北側が高くなっており、南側に腰郭が見られる。腰郭の南に堀切や最大長70mに及ぶ畝状竪堀が残っている。
【歴史】 南北朝時代、飯田氏によって築かれたと云われる。 『太平記』によると、康安元五年(1361年)南朝方の山名氏の美作侵攻により、篠向城主・飯田氏は山名氏に降伏したという。
文亀年間(1501~4年)篠向城主・山名右近亮は、高田城主・三浦貞連に攻められ討ち取られた。貞連は家臣の金田氏に在番を命じ三の丸に屋敷を構えた。
天正三年(1575年)三浦貞広は毛利輝元により滅ぼされると、高田城は毛利氏、篠向城は宇喜多氏の持城となった。
天正七年(1579年)宇喜多氏と毛利氏の対立の際、宇喜多氏の家臣江原兵庫助親次は寺畑城(真庭市久世)に籠城したが、翌年毛利氏の攻勢に城を明け渡して篠向城に落ち延びた。しかし、天正九年(1581年)には毛利氏に降参、篠向城から退去した。
その後、天正十二年(1584年)美作国は宇喜多氏の領国となると再び江原親次が城主となった。
慶長三年(1598年)朝鮮の役に参戦した親次は釜山で病死、その後篠向城は廃城となった。