鞆城 (ともじょう)
所在地 広島県福山市鞆町後地536‐1 2015.5.4
鞆城 (ともじょう)
所在地 広島県福山市鞆町後地536‐1 2015.5.4
本丸・資料館
本丸石塁
二の丸・奥は本丸
三の丸
鞆漁港
鞆城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道22号線に面した中国銀行 鞆支店(鞆町鞆136−2)東に駐車場があり[マップコード465 481 130*27]、城跡近くは道幅も狭く駐車出来ない。
南の城跡高台へ約500m、観光地となっている市街を歩く。比高20mほどの本丸に福山市立「鞆の浦歴史民俗資料館」(表記番地)が建てられ、有料(150円)で見学できる。
また鞆町に縁のある楽聖・宮城道雄の像や、毛利氏ゆかりの早毛利稲荷神社の社が鎮座している。本丸から鞆の浦漁港や仙酔島が望める。西側に本丸石塁が残り、5mほど下った西に二の丸(地図)があり、墓地となった三の丸に続いている。
昭和五十一年(1976年)7月13日福山市の史跡に指定された。
【歴史】 天文二十二年(1553年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に「鞆要害」が築かれた。
慶長五年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則によって修築された。
慶長十二年(1607年)の朝鮮通信使の日記に「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが、未完成である」と記しており、その時建設中だったことが判る。城代には重臣の大崎玄蕃が置かれた。
築城は慶長十四年(1609年)まで9年余り続いていたが、徳川家康が鞆城の存在を知って立腹し、これを恐れた福島正則は築城を中止して完成していた施設も取り壊して家康に謝罪することになった。
元和元年の一国一城令に先立って廃城となり、正則の後を受けて元和五年(1619年)福山に入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。
寛永十六年(1639年)水野勝俊が福山藩主となった後は、江戸時代を通じて町奉行所が置かれた。