御薗宇城 (みそのうじょう)
最寄地 広島県東広島市高屋町高屋堀804 2016.5.9
御薗宇城 (みそのうじょう)
最寄地 広島県東広島市高屋町高屋堀804 2016.5.9
登り口
虎口
居館跡
坂虎口
主郭跡
平賀氏墓地
御薗宇城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想 】 県道351号線に道標があり、表記番地の左より登ると、居館跡がある[マップコード168 201 040*88]。広い居館跡は三方を土塁で囲まれている。
まっすぐ北に行った所より登ると、腰郭、坂虎口があり、主郭がある。竹林となっている。南東側は一段下がっている。
住民の話によると、竹林に入るのは困難だと話されたが、何とか入って撮影出来た。また登り口付近に説明板があったそうだが、近年の台風で倒壊したとのことであった(設置予定はあるらしい)。
北西約500mの県道351号線に面し、平賀氏の墓所(地図)がある。平賀氏の菩提寺であった明道寺(廃寺)の跡にある。
昭和四十四年(1969年)4月28日、平賀氏の墓地(平賀氏の遺跡)が県指定史跡となった。
【歴史】 鎌倉時代末期に、出羽国平鹿郡を本領としていた平鹿氏(平賀氏)の一族が、元寇に備えて西国に下り、御薗宇城を築いて拠点とした。
南北朝時代、家督相続問題で家内に争いが起きたが、平鹿郡を所領としていた惣領の平賀直宗がこの高屋保に移り住んで、安芸国の有力国人領主として成長していった。
室町時代には安芸国の守護となった山名満氏(氏清の子)と対立し、応永十年(1403年)、満氏は平賀弘章が籠る御薗宇城を包囲して攻撃した。この合戦は平賀氏が他の安芸国人衆の支援を受けて3年に及ぶ長期戦となった。この戦いで弘章の子、平賀共益、平賀惟益、平賀惟元らは討死を遂げたが、最終的には山名満氏を撃退した。
戦国時代になると当主の平賀弘保は、文亀三年(1503年)に白山城を築いて新たな居城とした。しかし、御薗宇城は維持されたようで、廃城年は慶長五年(1600年)前後ではないかと推測される。『ウイキペデイア』より。