原城 (はらじょう) (日暮城) (国の史跡)
所在地 長崎県南島原市南有馬町乙 2014.9.4
原城 (はらじょう) (日暮城) (国の史跡)
所在地 長崎県南島原市南有馬町乙 2014.9.4
配置図
三の丸跡・石垣
石垣上の板倉重昌の供養碑
空堀・二の丸跡
本丸北東側石垣
本丸・天草四郎像
本丸南東側石垣
原城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道251号線より原城温泉真砂(南島原市南有馬町丁133)に向かう分岐点手前に、三の丸石垣があり、上に鎮圧軍の指揮を執り戦死した「板倉内膳正重昌」の石碑が建てられている[マップコード173 165 688*17](地図)。
三叉路を(東に行くと原城温泉)南に行くと二の丸跡(地図)があり、空堀を挟んで本丸入口駐車場に着く[マップコード173 165 202*66]。
本丸は一部積み直された石垣が残り、天草四郎像や佐分利九之丞の碑があり、城跡由来石碑が建てられている。本丸北西に天守台、虎口があり、西の石垣は壮観である。また島原の乱後破却された石垣が発掘されて展示されている。
島原半島の南部に位置し、本丸標高は31m、城跡周囲3㎞、面積41万㎡の規模を持つ。
有明海に突き出た岬を利用した要害であり、縄張り北より三の丸、二の丸、鳩出丸、本丸、天草丸(有馬中学校の東)と並んでいる。本丸より南方に冨岡城跡のある天草を望むことが出来る。
昭和十三年(1938年)5月30日、国の史跡に指定された。
【歴史】 明応五年(1496年)日野江城の支城として八代有馬貴純によって築かれた。本渡キリシタン資料館の展示では有馬晴信によって慶長四年(1599年)から慶長九年(1604年)にかけて築城され、完成時イエズス会により祝別されたことが記録されている。
慶長十九年(1614年)十四代有馬直純が日向国延岡城(縣城)に転封となった後の、元和二年(1616年)に松倉重政が大和二見城から日野江城に入城するが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城した。この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたとされる。
島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより、寛永十四年(1637年)十月二十五日に農民一揆「島原の乱」が勃発した。
この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・冨岡城が襲撃された。
しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人(2万7千人とも云われる)が廃城となっていた原城に立て籠もった。
小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎時貞を総大将とし、組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げた。
一揆側は3ヶ月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。
対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに寛永十五年二月二十七日から二十八日(1638年4月11日から12日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させ、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。
幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。その一方で、島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。
発掘調査の際には、惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、クルスの他、万人坑が出土している。