信貴山城 (しぎさんじょう)
所在地 奈良県平群町信貴山/信貴畑 2016.4.24
信貴山城 (しぎさんじょう)
所在地 奈良県平群町信貴山/信貴畑 2016.4.24
登城ルート(緑は松永屋敷跡)
縄張り図
松永屋敷跡入口
松永屋敷跡
主郭跡
城址碑・説明板
信貴山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【感想】 平群町の標高437mの信貴山に築かれている。東西に細長い郭が3段にわたって残り、天守跡には鉢護法堂や空龍大神等が祀られている。また北側尾根先端に松永屋敷跡が残されている。
【案内】 県道250号線が信貴フラワーロードと交差する地点より、そのまま林道を直進し、約700m行った池の手前に北ルート登り口がある[マップコード 11 096 330*23 ](地図)。手前に駐車スペースがある。
途中に松永屋敷跡があり東側に階段曲輪連なって残る。標高433m比高約100mの信貴山雄嶽頂上に主郭跡があり、城址碑・説明板が建てられている。北側の最高所には空鉢護法堂や空龍大神等多くの社がある。平群町指定文化財になっている。
別ルートとして千手院(平群町信貴山2280)の北西からも南ルートがある。
【歴史】 信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地として幾たびか築城が繰り返された地である。
古くは天智朝における高安城中心城域となり、中世には護良(もりなが)親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。
その後、戦国時代の天文五年(1536年)河内畠山氏の重臣・木沢長政、が本格的に築城した。しかし、同年十一月三日に長政は、三好・細川氏らとの戦いで敗死、信貴山城も炎上した。
永禄二年(1559年)に三好氏の重臣・松永久秀が修築して入り、多聞山城と共に大和を抑える本格的な山城として整備された。
天正五年(1577年)、松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城後、十月十日に落城、自刃した。その後廃城となった。『現地説明板』より。