亀山城 (かめやまじょう) (沼城)
最寄地 岡山県岡山市東区沼1725 2014.9.2
亀山城 (かめやまじょう) (沼城)
最寄地 岡山県岡山市東区沼1725 2014.9.2
西の丸・ 浮田小学校
標柱・遠景
弁財天鳥居
本丸跡・弁財天
秀家生誕地・亀山城跡碑
本丸跡・祠
亀山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道250号線より北に約300m行った市立浮田小学校(表記番地)北東の交差点より、東に約80m行った路肩に駐車できる[マップコード151 424 290*86] 。弁天神社の石段を登ると本丸跡がある(地図)。
本丸、二の丸の在った弁天山の形が亀に似ていることから「亀山城」と名づけられた。沼城ともいう。浮田小学校敷地が西の丸跡、本丸より東に行った山上平坦地に二の丸があり、畑となっている(地図)。
比高約20mの本丸は二段になっており、下段に沖益大師堂や四阿、祠があり、秀家生誕地碑、亀山城跡碑が建てられている。上段には弁財天が祀られている。本丸跡には蘇鉄が植えられている。
当城で生まれた秀家(直家の子)は関ヶ原の戦いに敗れた結果、八丈島に流罪となった。子孫が赦免されたのは明治維新後であったが、その時八丈島で蘇鉄の花が咲いた(赦免花)という言い伝えから、偲んで植えられた。
【歴史】 天文年間(1532~55年)に浦上宗景配下の中山備中守信正が築城した。
永禄二年(1559年)正月、年賀に参上した宇喜多直家に、主君浦上宗景は直家の妻奈美の父中山信正に謀反の風聞があるとして誅罰せよとの命を受けた。
悩んだ末、同年晩秋酒宴の後に寝所へ向かう義父・信正を謀殺した。これを聴いた妻奈美は新庄山城で二人の女児を残して自害した。
直家は宗景より亀山城を与えられて新庄山城より移って以後十四年間、直家壮年の居城とし、竜の口城の攻略や三村氏との戦いを進めた。
永禄九年(1566年)直家はお福と再婚し、天正元年(1573)正月十四日城中で宇喜多秀家が誕生した。
永禄十二年(1569年)、織田信長や西播磨の赤松政秀と結び主君・浦上宗景を倒すべく反旗を翻した。
しかし赤松政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆・孝高親子に敗北し、信長から派遣された池田勝正・別所安治なども織田軍の越前侵攻の為に戻されると逆に宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め降伏させてしまう。
これによって一切の味方が居なくなった直家は完全に孤立した為に独力での抗戦は不可能と判断し宗景への降伏を余儀なくされ、特別に助命され帰参を許された。
天正元年(1573年)、直家は石山城(岡山城)に移った。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した宇喜多秀家は八丈島へ流刑となり、慶長六年(1602年)、岡山に移封された小早川秀秋によって亀山城は廃された。