吉川元春館 (きっかわもとはるやかた) (国の史跡)
所在地 広島県山県郡北広島町海応寺265 2016.5.18
吉川元春館 (きっかわもとはるやかた) (国の史跡)
所在地 広島県山県郡北広島町海応寺265 2016.5.18
正面石垣
門跡
主殿舎跡
台所(復元)
吉川元長・元春の墓
吉川元春館跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道433号線に面し、駐車場が用意されている[マップコード322 461 641*63]。
東側正面に石垣がよく残り、中央に門跡の石段がある。殿舎跡など8棟が平面復元され、台所が復元されている。
南側に土塁・空堀があり、庭園遺構や溝、井戸が残っている。西には海応寺跡、吉川元春の墓所がある。正面から左が元長、右が元春公の墓である。
昭和六十一年(1986年)8月28日、吉川氏城館跡として小倉山城跡・駿河丸城跡・日野山城跡と共に国の史跡に指定された。
【歴史】 駿河国を本拠としていた吉川(きっかわ)氏は、鎌倉時代末の正和二年(1313年)大朝本庄に地頭として移り、室町時代には安芸国北部を治める国人領主に成長した。
その後戦国時代には周防国大内氏と出雲国尼子氏の間に立たされたが、毛利元就の次男である元春を吉川氏の当主に迎え、弟の小早川隆景と共に毛利氏を補佐し、主に山陰攻略に貢献した。
吉川元春が天正十年(1582年)の備中高松城の戦いの後、嫡子の吉川元長に家督を譲り隠居し、隠居館として天正十一年(1583年)に建設を開始した。
この地は吉川氏一族である石経有の所領であったが、それを譲り受けての建設であった。館そのものの細部は未完ではあったが元春はこの館に入り隠居生活を開始した。しかし、天正十四年(1586年)に建設半ばで元春が九州で死去した。
翌年の天正十五年(1587年)にもこの館の新たな主である嫡子の吉川元長も日向で病死した。
元長の弟吉川広家の頃に完成を見た。広家が天正十九年(1591年)に月山富田城に移ると、徐々に居館としての機能を失い廃墟と化していったと思われる。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後の検地帳でも城館跡として記載されている。