河内浦城 (かわちうらじょう)
最寄地 熊本県天草市河浦町河浦444 2017.5.10
河内浦城 (かわちうらじょう)
最寄地 熊本県天草市河浦町河浦444 2017.5.10
登城ルート
冠木門・登り口
北側堀切・橋
主郭・建物跡
主郭・休憩所・建物跡
帯郭
崇円寺
老中松平伊豆守宿泊所の標柱
河内浦城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高30m】
【感想】 天草南西部の深く入り込んだ穏やかな羊角湾に注ぐ一町田川の西、標高33mの半島状尾根上にある。尾根の付け根を深い堀切で切断し、防御している。
発掘調査後、城跡公園として整備され、往時の建物を模した休憩所が建てられ、建物跡が3棟平面復元されている。戦国時代の小さな建物で、居住していた武士の姿が偲ばれる。
【案内】 県道35号線より川を渡って西に行った温泉施設「愛夢里」南に「河内浦城跡資料展示館」があり駐車場が用意されている[マップコード474 294 065*05]。展示館には発掘調査で出土した陶器などが展示されている。
冠木門を登り、通路を登ると竪堀、深い堀切がある。その南の主郭には建物跡が平面復元され、説明板が建てられている。
南端に帯郭があり、さらに下って行き右に下ると、崇円寺境内に着く。山門前に高石垣が残っている。
崇円寺(表記番地)は館跡と推定されている。石垣南の中段に「老中松平伊豆守宿泊所跡」の標柱が建てられている。
【歴史】 河内浦城は「天草五人衆」(天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏)の一つで、天草氏の居城であった。一町田川を挟む南東向かいの山に築かれた下田城(地図)と合わせ、一つの城を構成していた。
慶長五年(1600年)関ケ原の戦いの後は寺沢氏の支城となり、並河兵衛門宗政が城主をとなった。
元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。
その後、郡代屋敷が置かれた。寛永十四年(1637年)に起きた「島原の乱」で、幕府から派遣され、乱を鎮圧した老中・松平信綱の宿所としても使われた。