庭瀬城 (にわせじょう) (芝場城)(しばのじょう)
所在地 岡山県岡山市北区庭瀬827 2014.9.2
庭瀬城 (にわせじょう) (芝場城)(しばのじょう)
所在地 岡山県岡山市北区庭瀬827 2014.9.2
八幡宮・堀
八幡宮・城址碑
清山神社・城跡碑
庭瀬城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 八幡宮(表記番地)が本丸跡に建てられ、城跡碑がある。南に清山神社があり、城跡碑がある。堀が廻らされ、石垣が残っている。
北側に駐車場が用意されている[マップコード19 792 726*14]。また西側約500m(歩行距離) の撫川城 へも歩いて行ける。
【歴史】 備中国の三村元親が、備前国の宇喜多氏の侵攻に備える為に築かせたと伝えられている。
天正十年(1582年)羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、城主の井上有景が八百余人を率い守備した。
この際、位置的に孤立した場所にあった為、吉川元春、小早川隆景に早々に撤退するように下命されていたが、有景はその命令に背き、羽柴軍との間で激戦が交わされた。その際に、井上有景の軍勢は羽柴軍に敗れ かの地は宇喜多氏の領有となり しばらくの間、当城は無城主となった。
慶長六年(1601年)宇喜多氏の重臣であった戸川達安が入城、庭瀬藩を立藩し、城を改修。城を廃して二の丸に藩庁を設置し、庭瀬陣屋として整備した。そして陣屋と鴨方往来周辺に陣屋町を造成した。
延宝七年庭瀬藩四代藩主戸川安風(やすかぜ)が9歳で早世し、嗣子が無かった為 庭瀬藩は断絶した。その後20年間は倉敷代官所と藩主が支配した。
元禄十二年(1699年)板倉重高が2万石で入封し、明治維新までの約170年間を支配した。寛政五年(1793年)板倉勝喜は、城内に板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祀る清山神社を建て、歴代の遺品を収蔵した。