水口城 (みなくちじょう) (碧水城) (県の史跡)
所在地 滋賀県甲賀市水口町本丸4-80 2014.9.2
水口城 (みなくちじょう) (碧水城) (県の史跡)
所在地 滋賀県甲賀市水口町本丸4-80 2014.9.2
出丸復元櫓・門・橋・石碑
出丸・歴史資料館
本丸跡・グランド
乾櫓石垣(本丸北西)
本丸南東堀
水口城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 本丸北側の中央公民館、体育館横に駐車場が用意されている[マップコード67 200 158*64]。
出丸跡に御矢倉を模した水口城資料館(表記番地)が建てられ、本丸跡は水口高等学校グランドとなっている。
一周水堀で囲まれ、石垣が出丸周辺及び本丸北西に良く残っている。城跡は県指定史跡である。二の丸遺構は開発により失われた。
【歴史】 関ヶ原の戦いの後、徳川氏の直轄地となった水口は、東海道の宿場町に指定された。
その後、三代将軍徳川家光が寛永十一年(1634年)、京都への上洛に先立ち宿館を道中の水口に築かせた。
これが水口城(水口御茶屋)である。作事奉行は小堀政一(遠州)が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。
しかし、この御殿が将軍の宿舎として使われたのは、この家光上洛の一回限りで、その後同城は、幕府の任命した城番が管理する「番城」となった。
天和二年 (1682年)に石見国より加藤明友(加藤嘉明の孫)が2万石で入城し、水口藩が成立した。
それまで、幕府お抱えの宿館として城番をおいて管理していたが、水口城は同氏の居城となり「碧水城」と改称した。2代明英は幕府若年寄となり下野国壬生へ転封、能登国より鳥居氏が一時藩主となったが、再び加藤氏が2万5千石で藩主となった。
歴代水口藩は、同城を幕府から借りている城として大切に管理し、特に居城であるにもかかわらず、本丸部の御殿を使用しなかったらしい(藩の行政諸々は二の丸で行った)。その後、明治維新を迎え、水口城は廃城となった。
その後、公売に付され建物や石垣(近江鉄道の線路敷石に使用された)の大半が処分され、本丸跡には学校敷地の運動場として利用された。
昭和四十七年(1972年)将軍家宿館遺跡として再評価され、保存の機運が高まった。
平成三年(1991年)11月に往時の御矢倉を模した木造建物が建てられ、水口城資料館(休館日は木・金、大人100円)として開館した。