青佐山城 (あおさやまじょう)
最寄地 岡山県笠岡市大島中4666 2015.5.4
青佐山城 (あおさやまじょう)
最寄地 岡山県笠岡市大島中4666 2015.5.4
登城ルート
登ってすぐの尾根からの青佐山遠景
枝城跡
下段の帯郭
上段の帯郭
主郭・神社・説明板
青佐山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【案内・感想】 県道406号線の浅口市と笠岡市の境となっている道を南に約450m 行ったカーブ地点に駐車スペースがある[マップコード465 803 528*46] 。そこより南に約150m行くと、表記番地の民家南西に登り口の小さな標識がある(地図)。
約600mの登山道が整備されている。登って行くと上に妙見社の祠が置かれた岩場があり、尾根に出ると「枝城跡」があり、南に行くと急斜面となり時計廻りに南東側に行くと、虎口に着く。
二段になった帯郭があり、上段に主郭がある。比高約130の山頂主郭には朽ちた稲荷神社があり、配置図板が建てられている。主郭下の北西に土塁が残っている。
主郭下の西側に井戸が残り西に朱の鳥居がある。その先は水の手曲輪となり西側の搦め手の麓に通じている。頂上付近より東に瀬戸内海を望むことが出来る。
【歴史】 築城者は、当時の備中介であった安倍晴明(921~1005年)であるとも伝えられているが、伝承の域を出ない。大島郷土史研究クラブの説明板では天文十年(1541年)大内義隆が築城したとなっている。
室町時代には、細川氏(野州家)が浅口郡一帯を、鴨山を本拠として領有していたが、戦国時代を迎えると勢力を失い、尼子氏、宇喜多氏等の圧迫を受けて分郡のあった伊予国へ退いた。
伊予国の川之江に在城していた一族の細川通薫(みちただ)は、毛利氏の援助を受けて永禄二年(1559年)に青佐山城を修築し、旧領回復の拠点とした。
通薫は細川家旧臣達(赤沢・大内・安部・秋田・河田・藤沢・今城・大島氏ら)に迎えられると、山麓に屋形を設け、周りに家臣を配置した。
通薫は勢力拡大を図り、永禄九年(1566年)に浅口市の六条院竜王山に竜王山城を築き本城としたが、それまでの7年間は青佐山に在城した。
通薫はやがて鴨山城を奪回し、そこを本城としてこの地の支配を行った。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏の移封に際し、この地の細川氏も長門国へ去った。
江戸時代には池田氏の領有となったが、多くの例にもれず城は破棄されている。