養宜館 (やぎやかた) (県の史跡)
所在地 兵庫県南あわじ市八木養宜中207 2017.9.21 2012.12.10
養宜館 (やぎやかた) (県の史跡)
所在地 兵庫県南あわじ市八木養宜中207 2017.9.21 2012.12.10
養宜館之碑
館跡の石碑・薬師堂と集会所
館内・土塁
東側土塁
養宜館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 養宜川(ようぎがわ)の南に位置している平城で、北と東の土塁がよく残っている。内部は、薬師堂・中八木集会所敷地や田畑として利用されている。
【案内】 県道126号線「中八木」交差点より、北へ350mほど行くと入口があり、標識が建てられている。
西に行くと薬師堂、中八木集会所(表記番地)[マップコード210 185 202*86]が建てられ、東道路から北の道路に沿って逆L字型に土塁が残り、北側土塁の外側に堀跡が残っている。
薬師堂横に、館跡碑、説明板が建てられている。また南西の小高い丘に「養宜館之碑」が建てられている(地図) 。
昭和46年(1971年)4月1日、兵庫県の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代の淡路守護であった長沼氏の居館であったといわれる。
暦応三年(1340年)、足利尊氏が細川師氏に淡路平定を命じた。師氏は立川瀬(たてかわせ)の戦いで、南朝方(国衙の宇原兵衛ら)を破り、養宜館に入り守護大名となった。
その後、淡路守護を継いだ細川氏春は、1361年(南朝:正平十六年、北朝:康安元年)南朝軍に敗れ降伏し、南朝方となった。その後、再び北朝方となった。
氏春の後、細川満春が淡路国の守護を継いだ。1391年(南朝:元中八年、北朝:明徳二年)満春は京で反乱をおこした山名氏軍と激戦の上、勝利し室町幕府方を勝利に導いた。
細川満春の没後は満俊、持親、成春と継がれ、文明十五年(1485年)成春の死去を受けて尚春が7代守護となった。
永正十六年(1519年)、細川尚春が阿波で三好勢に謀殺され、その後まもなく養宜館は廃された。