吉野城 (よしのじょう) (吉野朝宮・金峯山城)
所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山2498 2013.9.6
吉野城 (よしのじょう) (吉野朝宮・金峯山城)
所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山2498 2013.9.6
村上義光公の墓
金峰山寺蔵王堂
吉野朝宮址碑
大塔宮御陣地碑
吉野朝宮跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道15号線西の吉野神宮より南に約1km行くと、右の高台に「村上義光公」の墓があり、「村上義光公忠死之所」と刻まれた石碑が建てられている[マップコード36 147 821*23] (地図)。
更に南に約1.4km行くと、金峯山寺(表記番地:世界遺産)があり、仁王門・蔵王堂が建てられている。
その西に、「吉野朝宮址」、「大塔宮御陣地」の石碑が建てられている。
昭和二十八年(1953年)11月14日金峯山寺本堂と仁王門が国宝に指定された。
【歴史】 吉野城は、吉野山一帯を指していう中世山城のことで、鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、後醍醐天皇の息子・大塔宮護良(もりよし・もりなが)親王が、吉野山で挙兵し拠点とした。
太平記では金峯山城とも呼ばれる。村上彦四郎義光は信州埴科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って、北条鎌倉幕府と戦ったが、元弘三年(1333年)吉野城が落ちた時、大塔宮の身代わりとなって蔵王堂前二天門の高櫓で切腹した。
その義光の首を検分した北条方が、大塔宮でないことを知り、ここに捨てたのを里人が弔って墓とした。
延元元年(1336年)十二月二十一日、京都の花山院を密かに逃れた後醍醐天皇は二十八日吉水院宗信らに迎えられ吉水院に身を寄せられたが、延元四年(1339年)八月、病に侵され御年五十二歳で悲運の生涯を閉じられた。
吉野朝宮跡は南朝(吉野朝廷)の皇居跡で、大小20に及ぶ寺院があったがその内最も広い実城寺が行宮(あんぐう・仮の宮)とされた。足利幕府と北朝に対抗する南朝方の拠点として、後醍醐天皇の御座所となっていた。
その後、後村上天皇が即位した。1348年(南朝正平三年/北朝貞和二年)には楠木正行らが四条畷の戦いにおいて足利方の高師直に敗北し、さらに吉野も奪われた南朝は賀名生へ移った。
1368年(正平二十三年/応安元年)には後村上天皇が住吉行宮で崩御し、同地にて長慶天皇が即位する。
1383年(弘和三年/永徳三年)に長慶天皇は弟の後亀山天皇に譲位する。
1392年(元中九年/明徳三年)に南朝後亀山天皇は京都へ赴いて北朝後小松天皇に神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。