宮尾城 (みやおじょう) (宮ノ尾城・宮尾ノ城・宮ノ城)
所在地 広島県廿日市市宮島町 2021.6.7
宮尾城 (みやおじょう) (宮ノ尾城・宮尾ノ城・宮ノ城)
所在地 広島県廿日市市宮島町 2021.6.7
登城ルート
登り口標識
要害山・四阿
要害山北東側
北東の堀切 ・橋
東の郭
宮尾城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 宮島桟橋南の標高27mの要害山に築かれている。堀切がよく残っており、南西側山頂に四阿、今伊勢神社が祀られ、北東側山頂に石積みや仁王門跡がある。
【案内】 宮島口より宮島桟橋までJRと宮島松大汽船のフエリーが頻繁に運行されている。宮島口には3ヶ所ほど有料駐車場がある[マップコード103 501 800*67]。
宮島桟橋を出て、右(南)に100m程行った所に要害山登り口がある。
【歴史】 天文二十年(1551年)大内義隆は、家臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反により大寧寺の変で討たれた。
義隆と盟友関係にあった毛利元就は天文二十二年(1553年)晴賢に対し挙兵したが、陶軍の方がはるかに優勢で奇襲の一計を案じた。
平地での戦いを不利と見た元就は厳島に戦場を求め、天文二十四年(1555年)宮尾城を築き、陶の2万余の大軍をおびき寄せた。
同年九月三十日、元就は三千五百の兵と共に、折からの暴風雨と夜陰に乗じて包ヶ浦に上陸、翌十月一日早朝塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。
これに加え大鳥居側の海から元就の3男小早川隆景の軍と、宮尾城の兵が呼応し厳島神社周辺で激戦となり、不意を突かれた陶軍は壊滅した。
晴賢は僅かな兵と共に島の西部へ敗走するが、なすすべなく山中で自刃した(厳島合戦)。