岩屋城 (いわやじょう) (県の史跡)
最寄地 岡山県津山市中北上751 2020.5.7
岩屋城 (いわやじょう) (県の史跡)
最寄地 岡山県津山市中北上751 2020.5.7
登城ルート(緑線は車道)
慈悲門寺下の砦跡
馬場
本丸切岸
本丸・三角点
堀切・二の丸へ
二の丸
2の丸北東の大堀切
畝状竪堀(12条)
岩屋城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高260m】
【感想】 津山市中北上の標高482.6mの岩屋山に築かれている。龍神池のある谷を囲むように郭が取り巻き、夫々の郭を堀切で遮断している。
本丸は東西に広く高い切岸が残り、2の丸北東の大堀切、3の丸東斜面の畝状竪堀(手のくぼり)など見所は多い。
【案内】 国道181号線の「岩谷簡易郵便局」前に案内標識が建てられている[マップコード235 836 286*20]。
そこより岩屋川に沿って細い道を約1km行った所に駐車場が用意され、説明板が建てられている[マップコード235 866 242*08](地図)。北に300m程行った所にも駐車場があり、搦手の登り口がある(地図)。
階段を登ってゆくと、「慈悲門寺下の砦」「慈悲門寺跡」「慈悲門寺上の砦」が並んでいる。
そこから延々と遊歩道を登ってゆくと、馬場の東に着く。
【歴史】 嘉吉元年(1441年)、山名教清(のりきよ)が赤松満祐討伐(嘉吉の変)の論考行賞により、美作国守護に任じられた際に築城されたという。
その後、 応仁元年(1467年)より始まった応仁の乱で当時、美作守護山名政清(教清の子)が兵を率いて上洛した虚を突いて加賀半国守護赤松政則が来攻し落城し、更に文明五年(1473年)赤松政則が美作国の守護になったことから、岩屋城には武将の大河原治久が在城した。
永正十七年(1520年)春、赤松氏の武将であった備前の浦上村宗が謀叛を起こし岩屋城を奪取、武将中村則久を岩屋城に置いた。
これに対し赤松政則の子・政村は同年四月、武将小寺範職・大河原を将として半年にわたり城を包囲したが落城せず、赤松氏は退いた。
天文十三年(1544年)出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城でも接収戦が行われ、中村則久の子・則治は芦田正家に殺害された。
芦田正家は浦上氏に代わって勢力を伸ばしていた宇喜多氏の傘下になったが、5年後の天正元年(1573年)には、宇喜多直家の武将浜口家職が岩屋城主となった。
天正七年(1579年)以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田信長に属したことから美作の諸城は風雲急を告げることになった。
天正九年(1581年)毛利氏は配下の中村頼宗(葛下城)や大原主計介(西浦城)らにより岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となった。
織田氏と毛利氏の攻防は天正十年(1582年)備中高松城の開城により終了したが、領土境を備中の高梁川とすることに、美作の毛利方の諸勢力は服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が武将花房職秀を将として行われた。この戦いは長期にわたり、決戦の機会はなかったが、足利義昭の調停により収束した。
これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には長船越中守が入城した。
しかし、天正十八年(1590年)八月、山火事で類焼し、廃城となった。