藤目城 (ふじめじょう) (藤ノ目城)
最寄地 香川県観音寺市粟井町1719-2 2017.9.23
藤目城 (ふじめじょう) (藤ノ目城)
最寄地 香川県観音寺市粟井町1719-2 2017.9.23
登城ルート(緑は二の丸)
粟井神社南側から西へ
二の丸
二の丸西の城址碑
帯郭の藤目稲荷
本丸跡
南西の腰郭
藤目城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【感想】 観音寺市粟井町の標高136.4mの藤目山にあり、本丸の周囲に腰郭、帯郭がある。
東の山裾に空堀が残っており、土橋は改変され剣山神社への舗装道となっている。
【案内】 県道240号線より岩鍋池を過ぎた道に入口がある[マップコード77 009 479*70]。
粟井神社南50mの道を西へ登ると間もなく二の丸があり、西端に説明板と城址碑が建てられている。
その西は視界が開け、本丸の藤目山が望める。なだらかな尾根道を100mほど西へ行くと舗装された土橋の右に空堀が残っている。
その先を右に登ってゆくと剣山神社、藤目不動尊がある。少し登ると、左の帯郭に藤目稲荷があり、上段に本丸がある。
本丸は東西約50m南北約15mの規模で、周囲に四国ミニ八十八ケ所の仏像が安置されている。低い土塁があり、中央に穴がある。西から南に一段下がって腰郭が残っている。
【歴史】 室町時代初期、斎藤氏が居城としていた。
天正六年(1578年)夏、十河存保(そごうまさやす)は天霧城主香川氏と奈良勝政に命じ、藤目城を攻めさせた。城主斎藤師郷は阿波へ逃れた。奈良勝政は城に入り、新目弾正を城代として城を守らせた。
元親は藤目城攻撃に香川氏が参加しなかったのを見て、機が熟したと考え、その年の秋に財田本條城に進出した。 本條城主財田和泉守は香川氏に援兵を求めたが断られ、討死した。 元親は5千の兵を率いて藤目城に迫った。
長宗我部氏にとって最初の讃岐戦において史上稀に見る激戦となったが、夜に入り城の一角が崩れると、そこから城内に侵入し明け方陥落した。 弾正以下5百人は全滅し、土佐勢も7百人が戦死した。 旧城主の斎藤師郷は再び城に帰還した。