水晶城 (すいしがじょう) (石道本城・石道新城)
最寄地 広島市佐伯区五日市町石内3409 2016.5.18
水晶城 (すいしがじょう) (石道本城・石道新城)
最寄地 広島市佐伯区五日市町石内3409 2016.5.18
登城ルート
臼山八幡神社・道標
登城路
二の丸空堀
二の丸跡
本丸空堀
本丸跡
水晶城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 県道290号線に面した臼山八幡宮(表記番地)東の下に駐車スペースがある[マップコード22 270 419*78]。
神社の左側の道を北に行き、登り口(地図)より沢を渡って堀道を登ると、竹林の中に曲輪が数段ある。多くの兵士が駐屯できる広さがある。
荒れていて道ははっきりしないが、西に登ると二の丸跡があり、右に標高約125mの頂上部に本丸跡があり、夫々、標識が立てられている。本丸の北から東に空堀が残っている。
【歴史】 平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)の頃には源氏に味方していた佐々木国正が城主となり、この城に籠って平氏に抵抗したとされる。
時代は下って戦国時代になると、この安芸西部に勢力を伸ばしていた周防国の戦国大名・大内氏の勢力下に入り、厳島神主家の当主・藤原興親が永正五年(1508年)に京都で死去すると、大内義興は厳島神主家の所領を接収した。
永正十五年(1518年)に大内氏の重臣であった杉甲斐守が水晶城の城番となった。
しかし、大永三年(1523年)厳島神主家の一族である友田興藤が、神主家の家督を相続できなかったことに不満を持ち、謀反を起こした。興藤は水晶城を攻撃し、城を捨てて逃走した杉甲斐守を討ち取った。
乱の鎮圧後、水晶城には改めて麻生鎮里(麻生家宣の子とされる)が城番として入城し、その周辺の支配にあたった。
しかし、天文二十三年(1554年)に安芸国の戦国大名・毛利元就と、大内氏の実権を握っていた陶晴賢(すえはるかた)が敵対すると、毛利軍は水晶城を攻撃し、麻生鎮里は降伏した。
毛利氏の支配が確定的となると、この水晶城よりも海に面した桜尾城が重要視されるようになり、また、城の規模が巨大過ぎて、多くの人員が確保できないと守れないというマイナス面も考慮され、この水晶城も廃城となったと思われる。