人吉城 (ひとよしじょう) (繊月城・三日月城) (国の史跡・日本100名城93)
所在地 熊本県人吉市麓町18‐4 2013.6.2 2018.12.10
人吉城 (ひとよしじょう) (繊月城・三日月城) (国の史跡・日本100名城93)
所在地 熊本県人吉市麓町18‐4 2013.6.2 2018.12.10
復元多聞櫓
三の丸
武者返しの石垣
水の手門跡
大手虎口
二の丸・本丸石垣
本丸・礎石
人吉城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 胸川が球磨川に合流する南東の丘陵に築かれた梯郭式の平山城で、水堀や石垣が良く保存されている。
球磨川沿いに三の丸を配し、西側の胸川沿いに角櫓や多聞櫓、土塀が復元されている。
【案内】 胸川を渡った東に「人吉城歴史館」(表記番地)が建てられ駐車場が用意されている[マップコード 195 736 768*12]。
東の三の丸に相良護国神社が建てられ、その南に二の丸がある。「人吉城公園」として整備され、丘陵上に本丸が配されている。
球磨川に面した武者返しのある石垣の横をゆくと球磨川に開いた水の手門跡石垣があり、山側の登城口に門が復元されている。
本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれ、礎石が残る。
昭和三十六年(1961年)9月2日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(93番)に選定された。
【歴史】 源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は元久二年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。
この地は平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑が支配する所であり、主馬佑は長頼に反抗したため、鵜狩りと称して主馬佑を誘い、謀殺した。
相良長頼は主馬佑の城を拡張し人吉城の基礎を造った。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土し、この城の別名を「繊月城」「三日月城」とも言う。戦国時代になり、相良氏は球磨地方を統一した。
その後、19代当主の相良義陽によって天正年間(1573~92年)より城の大改修が始められた。途中に度々改修の中断があり、22代相良頼寛の寛永十六年(1639年)漸く近代城郭に生まれ変わった。
戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが天正九年(1581年)に島津氏に降伏し臣従した。
その後、義陽の子・相良頼房は天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の際に奮戦するもこれに降伏、家臣・深水長智の交渉により再び独立領主として人吉城と領地を安堵された。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方に付き伏見城などを攻めたが、本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。
享和二年(1802年)には城内から出火、文久二年(1862年)二月には城下町の鍛冶屋から出火があり「寅助火事」と呼ばれる大火となった。この二度の火災で城は全焼した。その後、一部の建物が再建された。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城となった。
明治十年(1877年)の西南戦争では西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われた。この際に幕末に再建された建造物も全焼したが、焼け残った堀合門が市内の民家に移築され現存する。